新宿が好きだ。
高校時代、栃木の田舎に住んでいながらも月に一度は新宿を訪れていた。
周囲の同級生たちは受験勉強に励み、休み時間ともなると塾の話題で盛り上がるような進学クラスの最低の青春時代に、塾にも行かず、放課後はゲーセンで遊び惚けては、見回りにやってきた生徒指導教員の目から逃げ続けた私にとっては学校とは、ただ勉強するだけの場所だった。
それほどまでに勉強して、どうしようというのだろう?
そんなこともわからず他人に流されるまま、無駄に浪費していた青春時代。
しかも男子校という色恋の甘酸っぱい香りも期待できない最悪な環境にあって、ますます私の精神は屈折していったのであろう。吐き気がするほど呪われた青春時代。
だが、新宿だけは違った。
今にも崩れそうなほど乾燥しボロボロに荒れた私の心にも、新宿は暖かかった。
エロス、雑踏、ネオン、BGM、街並、そのすべてが私を暖かく許容してくれた。包んでくれた。
折しも小説家の夢を抱き続けていた私は、当時、夢中になって読んでいた
菊地秀行の「魔界都市〈新宿〉」シリーズで舞台とされていた近未来的な新宿をガイドブックとして、現実の1990年代の新宿を彷徨い歩いたりもした。
東京生まれの人にはわからないだろう。
寺山修司が書いたという「東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京」という文字に象徴されるように、地方出身者にとって
東京とは、まさに危険な魅力に満ちた魔界都市そのものなのだ。
コギャルという単語が現れる前の時代に生きた私にとっては、新宿こそが東京の中心だった。
今でも、渋谷はポップカルチャーであり、新宿には未だに文学・芸術の息吹が色濃くへばりついていると確信している。
その芸術とは、綺麗に着飾ったり、お洒落に気取ったりするアートのことではない。
吐き気を催し、苦悩に身悶えするような生々しい人間の生のことである。
新宿には昔ながらの日本的な要素と、アジアン、そして西洋的な要素がみごとにチャンプルーされた複合型文化都市なのだ。今でもその魅力は滅びてはいない。
そして、そんな新宿の魔力に取り憑かれた男たちが、また2人。
「森山新宿荒木展」
期間:2005.1/15(土)〜3/21(月)
会場:東京オペラシティアートギャラリー
(都営新宿線・初台駅)
開館時間:平日12:00〜20:00
金土12:00〜21:00
休館日:月曜日(最終日を除く)
入場料:一般¥900、学生¥700、ガキ¥500
天才アラーキーと森山大道という日本でも屈指の写真家が「新宿」をテーマに撮影した膨大な写真が展示される写真展、いわば「1粒で2度美味しい」企画となっている。もちろん、私のように新宿が好きな方から、私のようにアラーキー、森山大道が好きな人まで、あまねく老若男女にお勧めできる展覧会なのだ。
Continue reading "新宿アラーキー街ヌード"
写真とは、決して「真」を写さない。
「今」を切り取ることもできない。
できるのは、外界を素材にして、技術的に作者の想い描くものを表現するだけである。
いわば、写真はその方法論的にも、コラージュと同種の表現技法なのである。
そして、この写真展において取り上げられている2人の写真家も「写真は表現するもの」だということを怖いくらいに知り抜いている。
森山大道は、一般的には、ザラザラした荒い質感を特徴とする写真家だと思われているようだ。
その「ブレ、ボケ、アレ」こそは、意図的に表現しなければ出せるものではない。少なくとも、そこらへんの現像屋さんに出したのでは絶対に表現することのできない写真なのだ。
一方の“アラーキー”こと
荒木経惟だが、アクリル絵具で彩色を施すような作為的な実験も行っていたり、アートな写真はもちろんのこと、扇情的なヌード写真から猫写真、スナップとしか見えない日付が入った写真まで幅広く、さまざまなスタイルで撮影し、確信犯的に写真を遊び抜いている。
そして、もっとも確信犯的なところは、写真集に言葉を載せているところだ。
写真にかぎらず絵画や音楽などの芸術作品が鑑賞者の心を震わせ、感動を生むのは、そこに表現されている「物語」に共感するからである。
だからこそ、その光景に対して物語を共有することの難しい街角の雑踏写真は、良い写真を撮るのが難しいし、さらに、そこに個性を出すことは想像を絶して難しいのである。
そこでアラーキーは、自分で物語を語り出してしまった。
その強烈な個性を武器に、あらゆる写真にアラーキー印を押してしまい、それだけで、後は勝手に鑑賞者が物語を連想するようにしてしまったのである。
だから、アラーキーの写真には、自分が撮影していないスナップ写真も平気で混ざっている。
それでいいのだ。
なぜなら、写真家とは「カメラのシャッターを押す人」ではないからである。
そんな表現者たちが「新宿」をモデルに撮影した写真が、文字どおり会場の壁を埋め尽くしている。
埋め尽くしすぎて、ちょっと上の方の写真とか、マジで見えません(;´Д`)
でもそれでいいんです。
圧倒的な量が訪問者に襲いかかってくるのが「新宿」という混沌とした街なのだから。
会場の2階では、今回の写真展のために森山&荒木が新宿の街を歩きまわり撮影した姿が映像で紹介されている。寡黙に微笑を浮かべながら撮影する森山に対して、やたらとしゃべりまくる荒木の姿は、まさに恥ずかしくて照れ隠しのために自分をさらけ出してしまう人の姿そのもの。私も似たような人間ですので、よくわかります(笑)。
そのほか2人の市販されているDVD作品が上映されるスペースもあり、こちらはゆったり椅子に座って見ることができます。
ただし、全ての作品の上映時間を合計すると、意外と長時間になるので、お出かけの際には、多少ゆとりを持っておくことをオススメします。
また、オペラシティ地下には手塚治虫グッズを扱う「手塚治虫ワールト・エンターテイメント・スクエア」というショップもある。
「三つ目が通る」や「ワンダー・スリー」など手塚作品の様々なグッズが所狭しと並べられている。
写真展帰りに訪れてみても面白いだろう。
なお、森山大道だが、私はつねづね「キレイな写真を撮る人」だと思っていた。
そして、それを他人に言うと、いつも「えー? 汚いよ」という返事が返ってきた。
…バカタレ。
私の言う「キレイ」ってのは、美的基準についてであって、画像が整っているとか、像がクリアだとか、そんなことはどうだってよろしい!
森山大道の写真は絵画的、映像的に極めて美を意識されている。
だから「キレイな写真」のだ。…私にとっては。
そして、意識的に美を求めて作成された作品は、私はあまり好きではない。
どうしても気取った芸術家風なイメージを抱いてしまう。
それは、まるで「ジャズが好きです」と語る若者を見るかのような嫌悪感なのである。
…いや、オイラもジャズは嫌いじゃないけど(;´Д`)
芸術など、わざわざ「する」ものではない。
人間は生きていることが、まずは奇跡的であり、もっとも美しいアートなのだ。
やはり、アラーキーの混沌として暴力的なまでの生命力を感じさせる写真の方が好きだ。
アラーキーは「エロティック」と言われる。
ヌード写真が多いのは事実だが、むしろ着衣写真の方がエロティックだったりすることも多い。
エロティックな要素もあるが、私はそればかりだとは思わない。
私がアラーキーの写真に感じるのは、あくまでも純粋な愛なのだ。
街を愛し、人を愛し、猫を愛する。
それはセックスする欲望も含めて、ごっちゃまぜになりながら外へと放射されて続けている。
だからこそ、アラーキーの写真はヌードであっても美しい。
汚いカラオケバーのスナップ写真でも美しいのである。
そして、私には妻・荒木陽子さんへの愛情が切なくなるほど感じられてしまう。
彼女を撮るアラーキーの写真は、美的にはイマイチなものも多いが、どれもこれもが美しく輝いている。その背景には、アラーキーの語る物語と、そして強烈なまでの陽子さんへの愛がある。
だから美しいのだ。
この写真展以来、私も妻を撮る機会が増えた。
今回、展示されている写真があまりに膨大であり、しかも見えない高さまで展示されているので(笑)、私としては写真展の図録を購入することをオススメする。
いわば過去の発表作品がある程度まとめられた「おいしい」一冊になっている。
決して高い買い物ではない。…重いけど(;´Д`)…通販がオススメ。
ちなみに芸術の感動の要素が「物語」と私は主張していることについて一言。
たとえば芸術論でも古典とされるカントの『判断力批判』において違う説明がされていたりするが、それはまた別の問題。私も無視しているわけではなく、あくまで作用が違うだけだと思っている。
そのうち論じてみませうか(´ー`)y-~~ 得意分野だしぃ。
そういえば、アラーキーは大学の先輩なんだよねヽ(´ー`)ノ学部は違うけど。
以下、リンク集。
■荒木経惟 公式ウェブサイト
■クラカメ堂:荒木経惟特集
そして現在、渋谷ライズエックスで公開中、天才アラーキーを題材としたドキュメンタリー映画。ビョークも出てます。
■アラキメンタリ
■森山大道 公式ウェブサイト
そして、将来、有望な写真家たちのサイト。
良い写真、あります。
■ATOMU WORLD:以前の職場の同僚さん。活動的なスタイルがGood!
■Fantastic Camera Gallary:今日の一枚:街角写真が良い。ロシアカメラの含蓄。
■TWO HEART:Pix*Tex:加工された街角写真が印象深い。
…えっと(;´Д`)ブックマコの整理が中途半端なので、この続きは別の機会にでも。…アディオス!!1(汗)
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すっごい以前に見た映画だが、ミニシアターで大旋風を巻き起こし、日本に「マリアカラス・ブーム」なるものを引き起こした映画がある。
「永遠のマリアカラス」

価格: ¥4,935 (税込)
マリアカラスというのは、オイラも門外漢ながら、その名は知っている世紀の歌姫。
まあ、拙者が知っている噂ってのは「悪魔に魂を売って、その声を手に入れた」とか「いつも彼女の傍には使い魔が控えていた」などと若干オカルトに偏った流言飛語の類いなんですけどね。(ゎ
この映画は実際のマリアカラスの録音を用いて、口パクの要領で役者が演技し、唄い踊るというもの。簡単に言えば、俳優陣のプロの演技と、マリアカラスという希代のオペラ歌手の歌声が同時に堪能できるという美味しい映画なわけだ。
くわしいストーリーなどについては、こちらを参照してみて下さい。ひとりの女性の苦悩や自分自身へと対峙する姿などが描写された、ある意味、遅咲きの青春映画とでも呼べるような佳作です。
それが例えば「伝説的な芸術家マリアカラスの伝記映画」だったら、本当につまらなかったと思うんですよね。人間、あまりにも自分と掛け離れた存在に対しては興味を抱けませんから。
この映画の素晴らしい点は、そのマリアカラスの姿が、たとえばオイラに置き換えることもできるということ。
人間が、自分自身のアイデンティティや自己像に対して葛藤するというのは、永遠の問題ですから。
それを放棄した中年以降の恥知らずは、人間ではなく、むしろ生ける屍と呼んだ方がいいのかもしれません。
Continue reading "カラスの叫びを聞いたか?"
■GAGA公式(映画)
■東芝EMI公式(オペラ)
さて、そろそろ生身のマリアカラスを巡る旅に出てみよう。
日本中のオバさんたちが映画をきっかけにマリアカラスのCDを聞き出したように、実際のマリアの声を聞いてみよう。
ちなみに、オペラを全然知らないオイラも聞いた瞬間に「すげえ!」と絶句しましたゆえに。
ベスト・オブ・マリア・カラス「カラス・イン・ポートレイト」

価格: ¥1,801 (税込)
むしろ、曲だけではなくて、オペラをそのまま観たくなってきますよね(´Д`)ミュージカルも好きだしな。オイラに向いているとは思う。
続けて、そんなマリアカラスの人生を書籍でたどってみましょう。
その愛に対して忠実に生きた人生については、以下のサイトも参考になります。
■井上篤夫の眼:マリア・カラス
まずは、カラスから信望の高かったインタビュアーによる音楽面での軌跡を忠実にたどった評伝。
たとえばこんな一節があります。
著者がマリアに「伝記でも書かないか?」と誘ったときのこと、彼女はこう答えたそうです。
「私の伝記は、私が演ってきた音楽のなかにつづられているの。音楽こそ私が自分の芸術と人生を表現できる唯一の方法なんですもの。それに、真価のほどはどうであれ、レコードが私の物語を刻んでくれているわ。」
「マリア・カラス 聖なる怪物」

価格: ¥5,040 (税込)
そして、もう一冊。
世紀のプリマドンナ、マリア・カラス(1923−1977)の生涯を、女性としての生き方に重点を置きながらノンフィクション小説のように描いた伝記だそうです。まあ、色恋沙汰にはあまりオイラは興味ありませんが(´ー`)y-~~
「マリア・カラスという生きかた」

価格: ¥3,045 (税込)
マリアカラス、1958年、フランスでのインタビュー。
質問者の「若い人たちをオペラに引きつけるにはどうしたらよいか?」という問いに以下のように答えている。
「演奏の水準を高いものにすることです。それは厳しい仕事と、犠牲と、心労と、自分自身への疑いと、なかなか理解されない危険を意味します。私は決して完全ではありません。完全なふりをしたこともありません。望むことはただ一つ、芸術のために闘うこと。たとえどんな代償が必要でも」
オイラは趣味としての「芸術」愛好家だけど、それでもこの言葉は心に響く。
芸術という領域を崇拝し、真摯に祈ること。
その気高さだけは、どんな資本も肉欲も奪うことはできないだろう。
そして人生を生きることは、そのまま芸術活動なのだ。
「芸術ジャンル:生命」
それこそが人生の美学。
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寺山修司。

1983(昭和58年)47歳で完全なる死体となるまで、彼が生み続けてきた言葉は、いまだに若者の心に巣食い、蝕み続けている。
アバンギャルド、ノスタルジック、サイケデリック、エロティック、アングラ、魔術的、猟奇的、変態…。
そんな形容詞で賞賛される彼という存在が、一般大衆にも歓迎され、CMに出演するくらいポピュラ−でありえたというあの時代は、なんと豊かな時代だったのだろう。寺山の存在を振り返るに、私などは現代との格差に絶望すら覚えてしまう。あの画一的で紋切り型な「有名人」という存在たちはいったいなんだろう。怪人だったタモリも、今ではただのオッサンになりさがってしまった。
神話のない時代。
そんな寺山が主宰していた演劇実験室◎天井桟敷において上演されたのが「毛皮のマリー」という戯曲だ。まだ丸山明宏だった頃の美輪明宏が主演した伝説の1967年初演。それから数々の劇団によって舞台に掛けられ、そしていよいよ天井桟敷で音楽・演出を担当していたJ・A・シーザーが主宰する演劇実験室◎万有引力、いわば寺山の遺伝子を受け継ぎし者たち、の手によって2004年7月、装いも新たに復活することとなった。
演劇実験室◎万有引力版「毛皮のマリー」。
降臨の地は、なんと亀戸(笑)。
Continue reading "毛皮のマリー万有引力版"

ちなみに寺山の遺伝子を引継ぐ者は万有引力以外にも数多く存在する。
それこそ天井桟敷に在籍していた者から仕事上の関係者、友人まで、寺山に関わった者たちは、いまだに寺山からの影響を受け続け、振り払うこともせず、それぞれの中にいる寺山を表現し続けている。
たとえば我が同居人、ザシキワラシ学芸員が某映像研究所で学生をしていた頃、8mm作品にBGMをつけることになり私が協力することになった。そこで提案したのが寺山映画「田園に死す」の楽曲とノイズ、子守唄などをミックスしたBGMだったのだが、師匠の「あそこで寺山はマズいよ」の一言で却下されたことがある。実際に寺山と深く関わっていた某氏が講師として教鞭を採っていたこともあり、シャレでは済まないというのが師匠の判断だったらしい。
しかし、実際に生身の寺山に触れることのなかった若い世代の人間であっても、寺山の遺した言葉たちによって、各自の寺山修司に関わっているのではないだろうか。それぞれの人生の中で、それぞれがそれぞれの方法で寺山修司と出会い、時を過ごしてきた。
つまりは、我々も、それぞれが寺山の後継者であり、寺山の遺伝子を帯びているのだ。
万有引力による公演は、まさに、そんな寺山の遺伝子たちが集う場所になっていた。
開場すると、既に舞台の上では役者がパントマイムよろしく奇妙にポーズを決め、動き続けては静止する、その一連の動作をただただ繰り返している。客席は開演を心待ちにしてか、おしゃべりが止む気配もない。それすらも既に「毛皮のマリー」という演劇のうちなのかもしれない。そしてJ・A・シーザーによる壮大な爆発音にも似た音楽が流れ、破裂したように役者たちが暴れ始めるのだ。毛皮のマリーの登場!
もちろん初演時とは異なる演出がされているだろうし、美輪明宏氏が演出した時とも当然、違う演劇になっていることだろう。
表面は大抵、みんなウソでできているのよ…。
人生っていうのはみんなそう。
表面はウソ、だけど、中身はホント…と思わせるには、表面がウソだと言わなけりゃならない。
霊が遠洋航海するためには、からだの方はいつも空騷ぎ! いつでも二つの追っかけっこで、ジャンケンで敗けた方がウソになってホントを追っかける。
歴史はみんなウソ、去っていくものはみんなウソ、あした来る鬼だけがホント!
恐ろしいのは、あまりに露骨に男性だった「毛皮のマリー」が、物語が進むにつれ、どんどんと悲しく、そして美しく見えてくることである。終幕直前にいたっては、彼が女性であることに寸分の疑いも抱かず、名も無き水夫との痴話話に耳を傾けるようになっていたほどだ。これは役者の演技力によるものか、あるいは戯曲自身の持つ力なのだろうか。
詩人はことばで人を酔わせる酒みたいなもんです。
ときにはことばで人を傷つけたりすることもできる。
ようやくみがいたことばで、
相手の心臓をぐさり、とやる。
それはマリーばかりではない。
男による逆宝塚、江戸時代の野郎歌舞伎の復権を目指したということで、美少女もスネ毛の生えた筋骨隆々のオッサンが痴態たっぷりに演じ、マリーに忠実に従う下男も女装しては自分の容姿に吐息をつく。そのいずれのキャラクターたちが魅力に満ちあふれ、知らず知らずの間に「毛皮のマリー」の世界観に、これっぽっちも疑問も抱かず参加することになる。
ああ、うまいこと自分自身に化けたもんだな、これはあたしにそっくりだ。
しかも、誰にもみせたことのないほんもののあたしにそっくり
その世界の根幹には、寺山がずっと描き続けてきた「母と子」の関係がしっかりと存在している。血のつながりもなく、性別も男同士という、あまりに非常識な設定なれど、そこに描かれているのは、やはり母と子の関係なのは疑うべくもない。
男のくせに、どうして警察官を演じたり、思想家を演じたり、大学教授を演じたり、人殺しを演じるんだ。
男のままでいいじゃないか。女を演じるのだけが変だというのは、おかしいじゃありませんか。
そんな演劇が、ステージ上だけではなく客席の間の通路すらも舞台にして、役者が縦横無尽に駆けずり回り、同時多発的にさまざまな出来事がいろいろな場所で起こり始めるのだ。だから座った座席の位置によって観客が把握するストーリーも印象も異なってくる。後の
「百年の孤独」という作品に通じる実験性であろう。もちろんキョロキョロして首も疲れるし、役者と目が合ってしまうと多少気まずい気分になるのだが、物語が進行するにつれて、中心舞台はステージ上へと集約されていく。そして最後の救いのないエンディングへとなだれ込む。
化けて化けて化けぬいてお墓の中でひとり拍手喝采を聞くんだ!
いままで他の「毛皮のマリー」を鑑賞していないから私に正確な批評などできるはずもないだろう。だが感想は言える。面白かった。
ちなみに観劇後、「珈琲道場 侍」という亀戸駅東口にあるカフェバーに行き、一緒に観劇したザシキワラシ師匠とAZEさん、そしてオイラの3人で一杯引っ掛けていたんだけど、横に座った女性の集団が旅行帰りかと疑うようなキャリーケースを引きずりながらやってきて、しかも「劇団がどうのこうの」としゃべっているわけですよ。
…ま、まさか万有引力の人?
さすがに怖くって顔を見て確認したりはできませんでしたけど。
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「クオリア」ってご存知だろうか?
私が初めて、その言葉に出会ったのがラマチャンドラン博士の好著「脳の中の幽霊」であった。

V.S. ラマチャンドラン, サンドラ ブレイクスリー, V.S. Ramachandran, Sandra Blakeslee, 山下 篤子
"脳のなかの幽霊"
それから日本人でも永井均先生やら茂木健一郎というソニーのおっさんやらが、ボソボソと呟いているのを発見するようになった。現在ではミーハーな哲学ファンの輩が例によって騒ぎ立てているようだが…正直、脳生理学に興味の無い連中が「クオリア」にそこまで夢中になる理由がよくわからないのだ…。<私>の問題と深く関わっている? だとしたら<私>の問題なんて、すべてクオリアが生み出したものでしかないだろう。あくまでもクオリアは<私>の問題の本質には関わりのないものだと私は考えている。
それはさておき。
クオリアとはなんぞや?
くわしくは茂木のサイトを参考にしていただきたいが、簡単に言えば「事物を感覚した時に感じる生々しい質感」を指す言葉である。
たとえば視神経や視覚皮質あたりに直接、赤色を感じるような状態を用意できたとしても、そこには、いま、まさにここに実際に存在する赤色を見ているときのような生々しさを感じることはないだろう。
それがクオリアである。
私なりの理解が正しいならば「離人症の時に失われる現実感」と言っても差し支えないだろうと思われる。
とにかく、昨年頃から、このクオリアというものが私の中で大問題になってきているのだ。
Continue reading "クオリア現像所"
さて、私には写真の趣味があることは御存知だろうか?
愛機はクラシックカメラと侮蔑されるAsahi Pentax Spotmatic Fという一眼レフで、完全非オートマティック、フラッシュはアタッチメント装着っつー、なんとも時代を感じさせながら、持ち運ぶには体力も必要になる一品(笑)。つーか、さすがに重い(;´Д`)
いちおうデジカメは同級生から7000円で買ったFinePix1300を使用しているが、これも重い(;´Д`)まあ、趣味と筋トレを兼ねていると考えれば厭でもないのだが…。
そんな素人写真愛好家の私を襲った悩みというものが、クオリアなんです。クオリア。
私が好きな写真は、いわゆる街撮り写真というもので、自分も含めた人間たちが平凡ながらも送る日常というものに限りない愛情を感じ、それを保存したいという思いの元に街角の風景や生活の様子などを撮影していたわけだ。
ちなみに「街撮り」というと、アダルトサイト的なフェティッシュな写真やら、あるいは街に転がっている事物を撮影したものなどと誤解されそうだが、私が愛情を感じるのは人間の生命であり、その舞台となる街を背景にした時に輝き出すと考えているのである。たとえば、Fantastic Camera Galleryさんで紹介されている写真などは私の趣味にかなりドンピシャだったりするし、荒木経惟の撮影した写真などは理想型だったりする。とにかく、そういった人間たち、そして街という生き物のエネルギーを撮影しようと私はシャッターを切っていたのであった。
だが、いざ現像に出してみると…なんだか結局は平凡な写真でしかなく、そこらへんの中学生が戯れにシャッターを押したかのような面白みのない写真だけが並べられるという散々たる結果になってしまうのである。
何故だろう? ひとつには私の写真技術、特にフレーミングが下手という大きな理由はあるだろう。だが、私は絵画のように上手に切り取られたデザインではなく、いま、まさに感動を受けている、この街の姿を撮影したいとレンズを向けていたのではなかったのか!? 私は絵画的に美しく構成されたパーツに感動しているわけではないのである。いわば包括的な街全体の雰囲気に感動を覚えているのである。だから、遠距離から絞りを無限に解放して撮影することになる。すると見事に凡庸な写真の出来上がりとなるのである(;´Д`)
私の撮影したいものは、クオリアだったのだ!*
写真技術の上級者は、たとえば街の中に存在するパーツを上手く切り抜く事で、全体的な街の雰囲気を濃縮して語らせることができるのだろう。そのための構図や、道具使いに卓越しているからこその技だということもできるだろう。
だが、だからといっても、その時に私が受けとめた街の手触りを伝えられるわけではないのである。
それ以来、私は街撮り写真をやめてしまった。
今では専ら、猫や友人たちのポートレイトを撮影するようになった。そして時折、気がついたように街角の静物を撮ることもあるが、雑踏と人間たち、そして街という構図では撮影したことはない。
クオリアは撮影できるはずがない。論理的に不可能だからだ。
つまりアプリオリに無理!!ってことだ。
ただし、あの時、その場所で私が感じ取った街の息吹は忘れられない。
あのドキドキする感動、興奮を、いつか誰かに伝えられたら…と願い続けてやまないのである。
街に幸あれ。人間よ、永遠に。
そして街よ、貴方はいつも美しい。

ちなみに「クオリア」って言葉で、包括された概念とか、連想、意味、記号などを混同して語るのは、──誤解している人もかなり多いが──明らかに間違いです。たとえば、そこらへんに箱が転がっている時に、問題とされているのは箱の外観なのに、中身についても語ってしまうような誤謬っぷりですので、充分に気をつけてください(笑)。
ってことで種明かし。
私が撮影したかったのはクオリアだけではありません(笑)。
エピソードです。
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2002年12月、まさに大学再入学のために哲学史の勉強に追われていた頃、私はクラシック音楽と出会った。
それまでにも確かに大バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」などは好きだったし、クラシック音楽はそれほど嫌いでもなかった。が、やはり、まず「クラシック好き」と言われる人のイメージが悪すぎたのだ(笑)。もうほとんど「ジャズ好き」と言われる人と同じくらいイメージが悪い(笑)。
高尚で、綺麗で、壮大で、知的で、文化的で、お高くとまっていて…。
つまり、クラシック音楽などはロック中心だった私からすれば、とっても退屈で綺麗なだけの気取ったものだと思っていたのだ。あるいは学校の授業で音楽室で半ば強制的に聴かされるだけの音楽だった。やはり退屈なイメージはつきまとう。
だが、なにげなく「ベートーヴェン交響曲第9番合唱付」を始めて聴いた時に、その考えは、いとも簡単に覆されることになった。
Continue reading "互いに抱擁せよ、幾百万の人々よ!接吻を全世界に!"
始めて聴いたベートーベン第9交響曲は、以下のCDである。

フルトヴェングラー「ベートーヴェン交響曲第9番合唱付(フィルハーモニアO.)ルツェルン音楽祭」キングレコード
その圧倒的な迫力、壮大な救いと歓喜に満ちた歌詞、そして緩急の絶妙な構成。そのいずれもが一級品であり、すぐに私の心は第九に捕われることになったのである。
折しも季節は第九が名物のように演奏される師走の頃。
佐渡裕が指揮する1万人の第九が開催されたり、カラヤン、ラトル、佐渡裕、小澤征爾などの巨匠たちの第九が一斉にリリースされたりと巷を騒がせていたこともあり、知らず知らずのうちに第九ばかりを聴き比べることになったのである。
そして驚いた。
ロックではドラムのリズムに合わせて曲は展開していく。だが、ドラムが前衛的にテンポを変えたとしても、いきなりでは他のメンバーも面食らってしまい、結局は演奏がバラバラで聴くに堪えないものになってしまう。
だがクラシックでは、指揮者のタクト1本で、テンポから音量までが変幻自在に表現されるのだ。それこそ、まさに作曲に匹敵するくらい、音楽でなされる表現活動であろうことは疑うべくもない。
それくらいに指揮者の楽曲に対する解釈により、演奏が異なっていたのだ。
それに気がつき、そして感動してからは、私はクラシック音楽の表現性に、現代の芸術としての音楽と同じもの、いや、それ以上に積極的な芸術性を感じるようになったのである。
上記の録音は1954年フルトヴェングラーがスイスのルツェルン音楽祭で指揮したもので、くわしいデータなどはshin-pさんのフルトヴェングラー資料室を参照していただきたい。
演奏は極めてハイスピードで畳み込まれるように展開される。また高音部分が録音のためだろうが強調され、まるで魂が本当に天めがけて登り詰めるかのような、最後の感動を約束している。すでに腐るくらい耳にして聴き飽きているはずなのに、未だに聴くたびに感動して涙が出てくるから不思議である。まさにシラーの「歓喜によせて」に託され、歌い上げられた、苦悩に打ちひしがれる人間たちが神の御許でひとつに集い寄るという歓喜を宣言すること…それが真摯なまでにフルトヴェングラーの演奏には込められていると今でも思っている。
このフルトヴェングラーというオッサン、なんとナチ政権下のベルリンでも第9を指揮した人。その波瀾に満ちた人生が、彼の姿に苦悩の芸術家のイメージを与える。そう、彼こそは音楽を通じ、自分の救済、そして人類の救済を真剣に悩んだ人なのかもしれない。
一説によると、そのヒトラー誕生祝賀前夜祭、あるいはキッテル合唱団40周年記念演奏会ライヴの録音だというCDが、なんとダイソーで105円で売られていたりする。録音状態は激悪なのだが、その迫撃砲とも比喩される最後のドラム、そして緩急の急の部分がありえないくらいの疾走感を持って展開されるところなどは、かなり迫力を帯びていて聴いて損のない一枚だと確信している。
ほかにはバイロイト盤と呼ばれる一枚がある。

フルトヴェングラー「ベートーヴェン交響曲第9番ニ短調Op.125"合唱" バイロイト祝祭管弦楽団」東芝EMI
これは合唱部分は多少こもって聞き取りづらい部分があるものの、私はルツェルン盤よりも壮大さ、華麗さが表現されているようには思える。ただ…900小節以降の緩急のつけ方が、私にはルツェルン盤こそが天上の世界へ昇るイメージと見事に一致しているのだ。だから私はどうしても聴くときはルツェルン盤を選んでしまう。
ラトルのCDや、テレビで放映していた佐渡裕、小澤征爾の演奏も聴いてみたが、どうしてもコーダ部分がまったりしすぎて私は好きになれなかった。
だが、少なくとも、指揮者によって楽曲の印象がガラリと変わることだけは実感できたと言えよう。それだけでも「ありがとう」と言いたいくらいだ。
クラシック音楽は、けっして高尚なものでもなければ、過去の遺産でもない。
現在進行形で、常に試行錯誤されている挑戦的な表現活動なのだ。
それは深夜の駅前でダンスを練習する若者たちや、惚れた女性の興味を惹くために大言壮語を繰り返す若者たちと同じように、自分の中にある何かを「表現」しているのである。
だから価値がある。
あらゆるものと切り離されて、それだけで「価値のある」ような絶対的なものなど存在しないし、クラシック音楽は、あくまでJ-Popやパンクと同じように音の寄せ集まった「音楽」でしかない。それ以上の意味などない。
だからこそ、まずは聴いてみよう。
第九交響曲を聴くにあたっては、その歌詞を理解することも大きな助けになると思われる。
たとえば、こんな記述を読みながら耳を傾ければ、作曲したベートーヴェンにまで心がつながることだろう。
全合奏が絶叫する中、クライマックス(b.904)で1v.の冒頭がユニゾンで戻ってきて、ついに、神々(Götter)が最高音でffになる。天上の世界の扉が開かれたのだ。
from The Web KANZAKI:ベートーベン第九の歌詞と音楽
音楽は誰かを見放したりは決してしない。
どうぞ豊かな音楽的経験を広げていただきたいものである。
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職場に演劇好きの人がいる。
私も後追いのファンとはいえ寺山修司の実験演劇が好きだったため、ちょろちょろと演劇について語ったりしていたのだが、さすがに自分自身も演劇に参加してしまうほどの人であり、寺山以外の演劇知識は皆無に近い私などは足下にも及ばないと常々感じていたわけで。
そんな彼女が、ふとチラシを持って来た。
それが毛皮族11回公演「Deepキリスト狂」であった。
彼女曰く「クラゲさんにオススメ」とのこと。
ちなみに彼女は「ナンセンスな演劇が好き」と公言する趣味の持ち主。白塗り&異形の演劇を愛する私としても似た趣味なんだろうし、誘う水あらば…の心境で、さっそく同居人であるザシキ師匠と観に行くことになった。
たまたま出産を数ヶ月後に控えた友人と会うことにもなり、一緒に下北沢をそぞろ歩き。
まさかWildMildに会うとは思わなかったけど(笑)。
夢に向かって音楽を続ける姿には、是非とも頑張って欲しいものです。
…つーか、大活躍じゃん(;´Д`)凄え!!
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閑話休題。
で、毛皮族なんだけど、公演チラシに描かれたイラストから勝手に想像していた「エログロナンセンス」という奥槻海月庵、垂涎の構成要素群から、これまた海月庵が心の底から愛してやまない「グロ」という要素を消し去ったかのような毛皮族ワールドが舞台で炸裂していたのに、まず驚いた。良い意味で。
つまりは「エロナンセンス」ってことになるのか?(笑)
うら若き美女たちがパンツは見せるし、乳房はさらけ出すし、歌って踊るし、鉄砲バンバンだし、電撃バリバリだし、インドだし(笑)。
とりあえず雰囲気的には深夜にこっそり放送されるような超ハイテンションのバラエティ番組を想像してもらい、それに輪をかけてドタバタハチャメチャさせたもの、と考えてもらえば良いだろう。
ある意味、羞恥心という檻を突き破り、肉体と精神を解放した状態なのだろう。
だが、寺山も冗談めいて語っていたように「アングラ演劇を観に行けば、裸が見れるぞ」という、まるでストリップでも観に行くかのような感覚で鑑賞する輩が出てくるのではないだろうか。
毛皮族の場合は、そこまで露骨に性をさらけ出しているわけではないのだけど、たとえば実験的に舞台で本番セックスするかのような演劇も考えられるだろう。つーか、俺は考えていたりするんだけど(笑)。
そうなった場合に、裸などの性的刺激だけを目的に観劇しにくる輩は絶対に現れると私は確信している。それはビデオデッキの普及に「洗濯屋ケンちゃん」が一役買っていたことからも容易に推測できることだろう。
無論、それでも問題はない。だが、だったら演劇と名乗る必要はないだろう。ストリップと名乗っても別に良いわけだ。
この微妙な困惑は、おそらく性産業/性文化の地位の低さから発生しているものと思われる。ストリップやエロビデオに立派なイメージさえあれば、別に演劇と呼ぼうがストリップと呼ぼうが大差ないはずなのだ。
だが、ストリップはイコールで裸を意味するのに対して、演劇ではあくまで裸は一要素でしかない。…と、そう一般的には考えられている。そして、そんな既成観念に甘えて、実際に裸だけを出せば良いだろうと、怠惰な作品作りしかしてこなかった性産業にも責任はある。これからの文化は、性を遮蔽することもなく、かといって性に甘えることもなく、人間に不可分なものとしての性を「あたりまえのもの」として包括するようなものであって欲しい。
それこそが文化に対する人間の真の解放だろう。
ちなみに毛皮族についてザシキ師匠からは「女の子にウケそう」とのコメントが寄せられています。
私としては、えーと、こういうのを「スラップスティック」と呼ぶんですよね?
そういえば実験演劇室◎万有引力の次回公演予定は2004年7月22日から亀戸カメリアプラザだそうです。
亀戸…これは神が「観に来い」って言っているに違いありませんって(笑)。
もろちん観劇同行者募集中(笑)。
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それは数日前、急に四谷シモンをザシキ師匠に紹介したことから話は始まる。
きっかけは「節分では何故、年の数だけ豆を食べるの?」ということで、抽出された「厄払い」と「撫物」というキーワードから、陰陽道的な「人形(ヒトガタ)」を連想し、そこから数ヶ月前の『美術手帖』10月号の記事を連想するに至ったのであろう。
四谷シモンというと、私の中では澁澤龍彦の図録などに良く登場していた危険な魅力を持っ