›2005年 8月 16日

[ 範疇 : 倫理の小道 ]

100人の村には住みたくない

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 もしも世界が100人の村だったら…。
 
 あまりに有名になり、もはや他に説明もいらない「100人の村」。
 数多もの人々を感動させてきたという文章を読むには下記リンクを訪れてみてください。
 ■もし世界が100人の村だったら

 数年前、確かに初めて読んだ時は素直に「面白いな」と思ったものです。
 なかなか肌で感じにくい貧富の差などを、100人という単位に置き換えてしまうことで、ぐっと身近なものとして考えさせることができるんだなぁと、感心すらしたのを覚えています。
 
 まあ、100人に置き換えるということは、つまりはパーセンテージなわけですが(笑)。

日本の国家予算を100人の村に縮小して考えると…
老人を助けたり、困っている人を支える仕事に25人が従事しています。
9人が道路やダムをつくり、7人が子供たちにいろいろと教えています。
武器を持って戦争の訓練をする人が6人います。
地方には20人が派遣され、いろいろと手助けをしています。
そして、22人が借金を返済すべく走り回っています。
残る10人は、それぞれいろいろな仕事に就いています。
 from 財務省:日本の財政を考えるより、
  平成17年度一般会計予算における歳出
 つまりは、いろんなパーセンテージを100人の村に置き換えることもできるわけで、小学校の社会科教育のネタとしては面白いとは思いますけど(笑)。
 
 しかし、つい最近、嫁と喧嘩していて、ふと、この100人の村を思い出してしまったわけです。 
 そして私の言い放った言葉は以下の通り。
「お前のその考え方は、100人の村と同じ比較思想だ!
 
 自分よりも不幸な人を見て、安心したりしていませんか?
 100人の村とは、下手をすれば、自分よりも貧しく不幸な人を見ることで、自分の立場に満足する思想になりかねないのです。

 
 「100人の村」は、なんとなく気持ちが悪い。
 
 このような感想は、なにも私だけでなく、やはり多くの人がそれなりに抱いていたようです。
 下記リンクでは、「100人の村」成立の経緯や、その背景に潜む思想などを丁寧に考察しています。
 ■100人の地球村
 
 そこでの考察に従えば、現在、一般に流布している「100人の村」は、3つのパートに分かれていて、それぞれで主張の性質が異なっているとのこと。
 
 パート1:具体的な数字で貧富の差を明らかにした部分。
 パート2:他の誰よりも自分が恵まれていることを強調する部分。
 パート3:ハッピーに生きていきましょうと誘いかける宗教臭い部分。
 
 このなかで、多くのwebコメンテイターが「危険だ」と主張するのが、やはりパート2以降。
 理由としては、他人の不幸を見ることで、自分がいかに恵まれているかを賛美するだけになりかねない…というものが多いようです。
 まさに「上を見たらキリがありません!」の思考。
 下ばかり見続けて、自己保身し、自己正当化し、安穏と現状に満足する小市民の幸せ、そのまんまの形なわけです。

 しかし、海月舎としては、パート1すらも気持ちが悪いと主張させていただきます。
 なんで、わざわざ「下には下がいる」ことを具体的に示す必要があるのでしょう?
 その数値を選んだということに、私は作為を感じてならないのです。
 
 具体的に見ていきましょう。

80人は標準以下の居住環境に住み
70人は文字が読めません
50人は栄養失調に苦しみ
1人が瀕死の状態にあり
1人は今生まれようとしています

1人は(そうたった1人)は大学の教育を受け
そして1人だけがコンピューターを所有しています
 これを読んだ人は、このように思うかもしれません。
「文字が読めないなんて不幸だなぁ!」
「栄養失調なんて、大変だよなぁ…」
「コンピューターを持っているなんて、恵まれているんだなぁ」

 貧しいことは不幸なんですか?
 
 まるで文字が読めることが優れているかのような価値観を、非識字の文化圏にすら押しつけるかのような恩着せがましさ。ややもすれば、グローバリズムという名で断罪すらされかねない「共通の幸せ」観が、そこには横たわっているかのように感じます。
 
 ここには決して、純粋な差異が示されているわけではなく、
 あえて作為的な項目が選ばれているのです。
 
 もちろん、貧困に喘ぐ人々が少しでも裕福になり、日々のパンと休息にありつけるならば、それに越したことはありません。
 しかし、その幸せを、他の文化圏から押しつける必要はないはずです。
 
 アメリカ式の資本主義が、まるで豊かさの象徴のように宣伝され、たとえばイスラム圏でも学生などの中には、アメリカ式生活に強い憧れを抱いている者もいることでしょう。
 そう、まるで以前の日本のように…。
 しかし、それほどアメリカ国民は豊かなのでしょうか?
 自家用車があり、テレビがあり、パソコンがある生活が豊かな生活なのでしょうか?
 
 生活に必要最低限な条件とはなんでしょう?
 それは、命の安全と、食料だけです。
 もちろん、それすらも守られていない人々が数多くいることも事実ですし、その事実に対しては早急な対応が必要となることでしょう。
 
 しかし、それ以外は我々の勝手な幸福の図式なはずです。
 そもそも「標準の住居環境」ってどんな家ですか?(;´Д`)
 
 私が「100人の村」を気持ちが悪いと感じたのは、
 そこに描かれた幸せと不幸の典型的な形が、
 結局は我々のような「幸福な」人々からの視点でしかないからなのです。
 
 つまりは大きなお世話だっつーの(´ー`)y-~~
 「100人の村」に感動している時間があったら、今すぐ100円でもいいから寄付しましょう。
 ■ユニセフ募金
 
  
【2005.08.16 追記っつーか解説、もしくは蛇足】
 書き忘れていたことがいくつかあるので補足。
 まず、こういった差異を示すことで、いわゆる「標準」という基準が生まれてしまうということ。
 その結果として、自然と「標準」以下はダメみたいに思えてくるのです。
 学校のテストでも平均点以下だと、ちょっと自分が頭が悪い子のように思えたことでしょう。
 たとえば軍隊を持っていない国は少ないから、日本も軍隊を正式配備して「普通の国」になろう、って言う政治家たちの言葉も、同じような標準症候群の典型例なのです。
 
 別に、付和雷同する必要もないし。
 いいじゃん、まったく別の価値観やスタイルを持つ人間たちが、それでも集まって生活している姿ってさ。そんな個性も認めてくれないような集団からは、さっさと離脱してしまえ。
 
 なぜ、差異を提示するだけで、そのような事態になってしまうのか?
 
 なぜならば、そこで提示されているものは純粋な差異ではないからなのです。 
 …純粋な差異とはなんでしょう?
  それは寝ても覚めても、黙っていても、そこに存在してしまっている差異のことであり、根源的にAとBを区別する差異のことです。
 
 存在するということは、そもそも、その存在が唯一、単独のものだということを示しています。
 この世に、決して同じものが存在してはならないのです。

 たとえば「A=A」という等式は、思考空間の中でしか存在しないものです。
 左のAと、右のAが違うということは、誰しもが知っていることなのです。
 だからこそ、わざわざ等号で結ぶ必要があるわけです。
 
 同じように私もひとりしか存在しません。
 もしも私が2人いるとしたら、その時点で、もう1人の私は他人になります。
 
 これは、存在という語に隠された根源的な差異になるわけです。
 存在という語においては、空間的/時間的に連関のないものに同一性は認められていません。
 差異という言葉の裏側に、存在というものが了解されている以上、この厳密な差異性は無視することはできないのです。
 
 また、そればかりではなく、我々がこの世に存在している事物である以上、性質的な差異も既に孕んでいるようなのです。
 それはドゥルーズが語るような差異であり、たとえばシソの葉が一枚として同じような育ち方をしないという差異であり、一卵性双生児の差異であるわけです。
 なぜ、そのような差異が生まれるかといえば、それはこの世を運行する様々なルール、法則が複雑に入り組んでいるからなのでしょう。そして、その法則性は未だに人間が了解することができていないため、さも偶然のように思えてしまうものであるのです。
 ぶっちゃけ、今後とも人間が全現象の背後にひそむ法則を理解することはできないでしょう。
 そのような差異は、ただ漠然と差異があるとしか表現できません。
 
 もしも言葉で「どのように違うのか」を言い表してしまうと、とたんに、その差異は一定の現れに収束されてしまうことになります。
 それは差異を対象化することであり、殺すことに他なりません。
 貴方と私の差異を表現するということは、要するに、その差異さえ無くせば、貴方と私の溝はなくなってしまうということになります。…しかし、そんなことはありえないでしょう。
 つまり、そこで表現される差異は、あくまでも作為的に選択された差異の一部分でしかないということです。言い換えれば、それは政治的に生み出された差異なのです。
 
 差異を差異として認めるならば、言葉で表現しようとするのではなく、黙って認めるだけです。
 そもそも差異を視覚的に認識しただけでも、そこには概念による収束が介入していることになります。だから本当の差異を見つめたいならば、差異を意識してはいけないのです。
 差異を認識せずに、認めるということ。
 
 もちろん、その境地にまで至ってしまえば、物事など一切認識できないんですが(笑)。
 いわば乳白色の混沌の渦に飲み込まれた状態とでもいえるでしょうか。
 あらゆるものがある状態というものが、逆に、均一的で平面的な世界になるわけです。
 
 哲学からは実生活への教訓など何も生まれやしないので、この考察はここで幕を下ろします。

 哲学者は分析をする人でしかなく、
 選択するのが政治家であり、
 行動するのは実業家なのです。

 いや、もちろんレトリックですよ(´ー`)y-~~
 

Comments

「千葉大が100人の村だったら」は
ネット上にフラッシュであったんだけど、
生協で出版されたためか見失いました。
http://www.eic.or.jp/event/?act=view&serial=1160&PHPSESSID=9a6e8cfe358167c3de8baa42a622f3f4

いちど数値、点数によらない価値に
身を置いてみてはどうでしょう。

Posted by: muji [URL] at 2005年08月17日 01:33

確かに、宗教っぽいよね・・・。

まぁ、なんとか自分は幸せなんだと錯覚したい人が多いってことだね。

幸せなんて、自分の胸の内だけなのにね。

あ、そうそう僕も血がでました。。。不摂生??

Posted by: えむだ [URL] at 2005年08月19日 22:06

 小学校などでは、正解がある問題解決ではなくて、問題解決の過程を教育すべきなんでしょうね。つまりは着眼点や解法などを問題にするということ。
 そうすることで正解などは複数とおり生まれるわけだし、効率の良いやり方も確かにあるけど、そんなのは個人によって得意な解法なんかもちがってくるわけですからね。
 その中で、どのような解法では、どのような答えが得られるのかも教えることもできます。
 逆にいえば、正しい解を得られない解法については教師が「なぜ得られないのか?」を説明しなきゃいけないわけで、全教科を担当しざるをえない現行の小学校教育では、ちょっと難しいとは思いますけど。

 つーか、100人の村とは、ずいぶん掛け離れたコメントになっちまったが(笑)。
 
 結局は他人を貶めないとじぶんの価値を見い出せない人は、自分を客観視できない人なんでしょうね。

Posted by: かんりにん [URL] at 2005年08月28日 18:07
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