›2005年 5月 16日

胎児のように学べ

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 言語の獲得は、未成長の幼児によって興味をかき立てられるテーマの、数多くの中のひとつである。
 人間は、どのようにして母語を獲得するのだろうか?

 最初は泣くばかりだった我が子も、最近ではようやく「音」らしきものを発声するようになってきた。
 そのうち、次第に人間の言葉を話し始めるのだろう。
 これからの国際社会に向けて、オイラは今日も我が子に話しかける。
 Guten Tag!!
 
 幼児が、どのようにして言語を獲得するかを考えてみることは、人間が言語を学習する方法を理解する助けになることだろう。
 また、古の口承文芸の伝承者たちが、どのように「オッデュッセイア」のような長文を記憶し、伝えていったのかを研究することで、やはり言葉を覚える秘訣にたどり着くことができる。
 そして、そこから導き出される効率的な学習法によって、オイラたちも外国語をペラペラになってしまおうというのが、今回の試みだ。
 
 なお、あくまで言っておくが、私はそれほど外国語が得意ではない。
 その理由も明らかにされるだろうが、とりあえず講師に信憑性はないかもしれない(笑)。

 言語獲得は、とりあえず胎児の頃から、母親の話す言葉に触れることで始まる。
 それは骨髄を渡る音であり、羊水を優しく揺さぶる振動でもあるだろう。
 そうして伝えられた音の振動は、脳味噌に刻み込まれる。
 そして、母音の発音など、大まかな発音体系を聞き分ける能力を獲得する下地を用意する。
 日本語の母音は5つ。
 ヒンディ語では母音が10、二重母音が4、子音が34。
 タイ語では母音15、子音44。
 沖縄語や古代日本語では母音が3つ。
 具体的に発音された音声が、どの音素に当てはまるのかを区別する能力は、この頃からの蓄積がモノを言う。日本人が「R」と「L」を聞き分けられないのも、この音素の下地がないため、そもそも区別する気にならないからだ。

 では、なぜ、この時期に音声を学習すると断言できるのだろう?

 そもそも言語とは、なにか?
 話を簡単にするために乱暴に言ってしまえば、言語の要素は3種類に分けられる。
 言語とは、意味を持つ。
 言語とは、文法規則である。
 言語とは、音声である。
 それぞれ「意味論」「統語論」「音韻論」などという鹿爪らしい名前がつけられていたりもする。

 意味を抱かせる対象物も与えられていない胎児の段階で、問題になってくるのは音韻論だけであろう。そして、意味もなければ、文法も学習しがたい。
 喩えるならば、インターネットラジオでアラビア語放送を50年間ずっと聴き続けたとしても、学べるのは人称代名詞といくつかの動詞くらいで、それ以外の単語は聞いたことはあっても意味が分からない状態に陥るようなものである。
 ヘレン・ケラーから触覚すらも奪ったならば、彼女は言葉を理解できたであろうか?
 
 以上のような理由によって、胎児の頃から、母音、子音の発音などを聞き分ける耳を育てていることになる。

 胎児から出生にかけては激しく脳細胞も動く時期である。
 構成されたばかりの脳細胞には、無秩序なくらいにニューロンがあふれ、やたらめっぽうにシナプスを伸ばしまくっている。それが外的刺激を受けるにつれて、少しずつ整理され、間引きされ、必要なシナプスだけが強化され、使われないような回路は削除されていくことになる。
 それは、当然、言語機能に関するニューロンも対象に含まれるだろう。
 すなわち、これが事物を区別、分類する能力の発芽といえよう。
 この現象によって、無限にある人間の発音を、英語ならば20の母音と24の子音といったように、一定の音韻に分類することができるようになるのである。
 
 やがて、季節は巡り、赤子は誕生を迎える。
 娑婆世界に生まれ落ちてから周囲に聞く言語の嵐。
 そこから一定の法則性や単語などを見つけ出し、それを言語として学んでいく。
 まだ外界の刺激は混沌としていて、明確な区別をつけられるわけではない。
 たとえるならば、バーミリオン朱色チャイニーズレッド韓紅スカーレットレッドという塗料で塗り潰された部屋に閉じ込められ、その中から猩々緋で書かれたメッセージを探すようなものである。
 赤子の世界は、未だに区別がない世界なのだ。

 しかし、成長とともに少しずつ物事に含まれる差を感じて、分類を学習していく。
 その分類は、完全に母語の影響下にある。
 色の違いはわかっていたとしても、口を開けば「赤」としか言いようがないのだ。
 それと同じように栃木県真岡市の古老たちにとってみれば、「蠅」と「灰」の音の違いはわかっていたとしても、口を開けば同じ「ハイ」という発音になってしまうのである。すなわち「エ」という音が音韻体系に存在しないために「イ」に吸収されてしまうというわけだ。
 胎児の頃に準備された母音など音韻の分類も、ここに至って、より明確に分化が進むことになる。LiceとRiceが別のものを差す文化に生まれ育った子供にとっては、明らかに「L」と「R」は別の音である必要があるからだ。だが、シラミも米も、同じように生活の主食として摂取するような民族にとっては、カタカナひとつで「ライス」と表記されても別に問題はないのである。

【サピア・ウォーフの仮説(弱い仮説)】

 「概念の範疇化は言語・文化によって異なる」とする言語相対論。
 文化的背景を要因に、言語によって表現しやすいこと、しにくいことが存在するとする。
 一方の「強い仮説」では「人間の思考は、その社会で用いられている言語に完全に規定される」としている。
 言語決定論とも呼ばれるが、現在では否定的な意見が強い。

 音素の分類と同時に、視覚や触覚などによって外界の事物も分類され始める。
 すなわち、赤子の世界に初めて「モノ」が登場し始めるわけだ。
 そして、それから「モノ」の名前、すなわち意味の獲得が始まる。
 記憶の誕生だ。

 クラゲには脳味噌がない。
 しかし、積極的に食物に襲いかかり、あるいは仲間たちと連結してスイミーよろしく1匹の生物のように共同体を構成してしまう能力を考えるに、特に脳味噌が生命活動に必要不可欠なものではないようだ。
 餌と海水を見分けるだけでも、記憶力は必要になる。
 すなわち記憶は、脳味噌だけの専売特許ではないようだ。
 …もっとも、人間の場合は、脳味噌に特化してしまったという可能性もあるが。

 少なくとも人間の記憶が何処に蓄積されるのか、はっきりとしたことはわかっていないのが現状だ。
 電気ショックにより記憶を蘇らせる「経験的反応」が起こる箇所が両半球の側頭葉上部に集中しているからといって、そこが記憶の貯蔵庫だとは限らないだろう。記憶の再生に関わる場所なのかもしれない。結局は記憶が埋蔵された具体的な場所は特定されないままである。

 しかし、その記憶の方法は、推測することができる。
 思い出してもらいたい。
 赤子が外界を記憶し始めるとき、たとえば受験生のように単語だけを与えられるわけではない。
 かならず一連のエピソードとして世界が与えられ、それを見聞きすることになる。
 つまり、ニューロンには、そのエピソードごと叩き込まれると考えた方が自然ではないだろうか?
 そこで推測されるのが以下の手順である。
 極めて独断に満ちており、脳科学の成果を充分に調べ尽くした結果からの推測ではないため、あくまでも話半分に聞いておいてもらいたい。
 
 (1)外界からの刺激は、それぞれ第一次感覚野で、脳で処理できる形式に変換される。
 (2)変換されたデータは大脳皮質連合野に送られ、いま、まさに起こった現象がなんだったかを総合的に分析する。具体的には現象が細かくエピソードや事象といった細分化された単位に区分される。
 (3)その情報は海馬へと出力され、細かい事象ごとの関連性、脳幹などから与えられる生命維持のための情報などを付加される。いわばデータ自身に他の事象との関連性が記録されるわけだ。
 (4)そのデータは再び大脳皮質連合野へと戻され、海馬にて付加された情報を基に分類され、記憶に送られる。その際、エピソードごとのニューロンネットワークが強化されることで、エピソードの記憶もされることになる。
 
 以上の手順を経ることで、たとえば「犬が吠える」という現象は、「犬」「吠える」などという単語に分類され、既に貯蔵されている「ブルドック」や「狼」などとも関連づけられた「犬」というデータが強化されることになる。また、同時に「犬」というデータは「吠える」とも結びつけられ、さらに「怖かった」だの「夜道だった」などという一般に言う「エピソード記憶」的な記憶も植え付けられることになる。
 この仮説のメリットは、やはり膨大な情報を重複して記憶する必要がなく、貯蔵スペースの無駄を省けるということにあるだろう。さらに記憶と匂いなどという、さまざまな感覚同士の結びつきについても説明しうる仮説になっている。
 一方、デメリットといえば、まあ、脳の機能がよくわかってないところが最も酷いところなんだけど(笑)、そもそも海馬が記憶にどのように関わっているのかが皆目見当がつかず、ぶっちゃけ「当たるも八卦」なレベルで論じていることにあるだろう。
 
 優しく教えて下さる方を募集しています。マジで。
 
 さて、以上の仮説を経て、単語の意味が記憶されることになった。
 今度は、その単語を並べて、言葉を生み出さなければならない。
 要するに「統語」すなわち文法の段階に入ったわけだ。
 言葉を発するようになったころに見られるような「ママ!」という一語文から、「パパ、わんわん」という二語文を経て、幼児の言語はどんどん複雑化していく。 もちろん幼稚園生ぐらいになっても時制や主格の把握などに文法的誤りも見られるが、いつのまにやら複雑怪奇な日本語文法を修得してしまうことになる。
 
 日本語文法など、学者の間でも未だに喧々囂々と論議の尽きない種である。
 それほど厄介な言語を、どうして幼児は習得してしまうのだろう?
 
 「プラトンの問題」と呼ばれるものがある。
 乳幼児が耳にする会話文は、どうしたって文法や語彙が限られているし、しかも言い間違えや不完全な文も含まれているというのに、どうして将来的には無限に近い文章を生み出すことができるようになるのだろうか?
 誰も「犬がこたつで丸くなる」という文を教えていなくても、子供は「犬」「こたつ」「丸くなる」という言葉を知っていれば、そのような文章を生み出すことができるのである。
 つまり、数限りある言語的資源を応用して、巧みに利用できるのは何故か?という難問である。
 
 その答えはチョムスキーの普遍文法にある。
 つーか、オイラの場合、カントとヴィトゲンシュタインだけど(笑)。
 
 要するに、人間の脳味噌には、そもそも文法が息づいているのである。
 そこに単語を当てはめることで、我々は日本語文法に無理なく従いつつ、日本語を話すことができるという理論である。
 
 不思議に思われるかもしれないが、カントと脳科学を結合しようと考えているオイラからすれば、少しも難しい話ではない。脳味噌は、そのようにしか概念を記憶できない、そして、それ以外の方法で関連づけることができないというだけの話だ。そして、それが発話され、観察者によって「文法」と呼ばれているだけにすぎない。
 人間は肌の色こそ異なれど、まあ、似たような外見をしている。腕は2本だ。
 それならば、脳味噌の構造も似たようなものだろう。
 同じような脳味噌では、当然、ニューロンの性質も似てくるに違いない。
 世界中の言語に「動詞」「名詞」があるのは何故だろう?
 それは、脳細胞がモノを認識したときに「関係/様態」や「分量/性質」などに分析して把握しようとするからである。

【カントによる純粋悟性概念(カテゴリー)】

●分量→単数性/数多性/総体性
●性質→実在性/否定性/制限性
●関係→付属性と自存性/原因性と依存性/相互性
●様態→可能-不可能/現実存在-非存在/必然性-偶然性
 この脳細胞の性質が根本的に普遍的であるからこそ、たとえば日本人の赤子をアメリカ人夫婦に預けたとしたら、その子はなんの問題もなく英語を習得するのである。
 
 だが、もちろん英語と日本語では文法には大きな違いがある。
 そういった具体的な言語文法を習得するのは、やはり経験によるところが大きい。
 脳細胞に備わった性質が、経験的な文法のシャワーを浴びることで、特定の言語の文法を学習することになるのだ。「僕はネコが犬を食べるのを見た」という文が「I saw the cat ate the dog」という語順になることは、経験的に学ぶのであって、脳細胞だけでは判断されないのである。
 何故、上の文が「the dog saw the cat ate me」では良くないのか?
 英語文法以外には誰一人として説明できやしないことだろう。
 
 では、具体的に幼児の学習シーンを見てみよう。
 母親は、なにも国語の教員免許を持っているわけではない。
 ゆえに体系だった語学教育などしようなどと考えてはいないだろう。
 母親は、ただ話すだけである。
 そして幼児は、そこから言語を習得してしまうのである。
 その方法としては、上で説明したエピソード記憶に近いものがある。
 つまり、さまざまな一文を与えられることで、次第にそういった文章がどのような構造になっているかを経験的に学び、それを分析し、最終的に単語の意味ばかりならず「主語」「動詞」などという複雑な概念すらも理解していくことになるのだ。
 
 マクドナルドに毎日、肝硬変で死ぬまでチーズバーガーを食べ続けた人は、夢の中でさえも、おそらくパンとチーズとピクルスとパティの正確な順番を思い出すことができるだろう。
 
 以上が乳幼児の言語獲得の方法となる。
 では、外国語として我々のようなロートルが言語を学習する場合は、どうすればいいのだろうか?
 残念ながら、乳幼児と同じように言語を獲得することは不可能である。
 だが、記憶のシステムを応用し、効率的に学習することは可能であろう。
 以下にその方法を羅列していく。

 (1)単語を覚える。
 ある程度の単語の意味を知らなければ、外国語を習得することは不可能である。
 基本的な語彙だけでも最低限は押さえておかねばならない。
 そのためには、残念ながら地道な努力も必要になる。
 たとえば英和辞典には重要語という基準が設けられ、中学や高校の基本語や大学入試必須単語などが太字やあるいは大きな活字で表示されている。そういった重要語をすべてピックアップし、ノートに書き連ねていくのも良い学習になる。
 その際に、ついつい意味を日本語で書き込んでしまいがちだが、それは絶対にしてはならない。
 意味は書かない。日本語も書き込まない。
 その代わりに、簡単な例文を辞書から写すようにするのである。
 例文は単語の意味ばかりでなく、文法も教えてくれるのは幼児の例からもわかるとおりであろう。
 
 (2)文を覚える。
 上記学習方法で、すでに例文を書き写すことの効果は説明された。
 だが、それ以上に、文章を覚えることは、外国語を操るための大いなる助けになる。
 なぜか?
 いきなりで恐縮だが、口承文芸というものを御存知だろうか?
 アイヌ民族の「カムイユカラ」や、ホメロス「オデュッセイア」も口承文芸として、脈々と口頭で語り伝えられてきたものだ。もしくは稗田阿礼が語ったとされる「古事記」も口承文芸と呼べるのかもしれない。…呼べないかもしれない(;´Д`)まあ、いいや。
 とにかく、口承文芸の伝承者たちは、長編、短編入り乱れる膨大な数の話を、間違いもせずにスラスラと紡いでいく。驚くべき記憶力だと誰しもが驚嘆することであろう。
 だが、その秘訣は、記憶力にではなく「常套句」にあったのだ。
 「常套句」もしくは「定型文」、最近では「テンプレート」という表現でも通じるだろう。
 つまりは一定の型を持った文章のことである。
 仕事の電話をかけたときに「お忙しいところ失礼いたします」などというのも定型文のひとつになる。
 要するに、口承文芸の話者は、この定型文を用いることで、物語を語り伝えているのである。
 まず、伝承者は物語の全体のストーリーを把握する。そして、その物語をいくつかのシーンに分類する。たとえば戦闘シーン、あるいはラブシーン。たまには滑稽な話もあるだろうし、傍若無人な権力者に理不尽な命令を言いつけられるようなシーンもあることだろう。
 そして、そのそれぞれに伝え聞いてきた定型文を投入するのである。
 すると、驚いたことに、それだけで物語の概略は完成してしまうのだ。
 あとは、細かいつなぎを取り繕うだけである。
 こうして口承文芸は脈々と語り伝えられてきた。その背景には一字一句を正確に再生する必要もないし、同じ話者であっても、定型文の箇所以外は話すたびに変わってきたりするくらいである。
 もちろん落語も似たようなものだ。ぶっちゃけ、ご隠居と熊さんの会話なんて、噺ごとにそれほど変わるものでもない。だいたいは頭の悪い熊さんがご隠居の家にやってきて、愚痴をこぼし、それを聞いたご隠居がトンチンカンなアドバイスを与えるといった流れになっている。
 つまりは、会話文を記憶するのも、定型文を利用することが近道になるというわけだ。
 たとえば挨拶文のひとつでもいい。
 まずはそれを覚えて、使用すること。
 それから覚える文章の数を少しずつ増やしていく。
 たとえば道を尋ねる定型文をひとつ覚えてしまえば、あとは具体的な単語を入れ替えるだけで、ロンドンでもニューヨークでも、どこにいたって道を尋ねることができるようになる。
 旅行のガイドブックに書かれた簡単な会話文でも良い。
 とにかく、なにかしら文章を覚えてみることだ。
 
 (3)実際の発音を聞く。
  文字で書かれた外国語を読むのも勉強にはなる。
 だが、乳幼児はいきなり文章からは学ばない。
 よって本稿では、なにがなんでも耳から学習をしてみようということになる。
 さて、最近ではインターネットラジオの発達で、世界各地の発音を自宅で聞くことができるようになった。
 そうは言っても、そこでなにが話されているのかが理解できなければ、意味を把握することもできず、語彙も増えず、したがって文法を身につけることも難しいという悲しい結末を迎えることになりかねない。それこそ触覚を奪われたヘレン・ケラーになるわけだ。
 そこでオイラがオススメするのは、DVD鑑賞である。
 音声は外国語を選択し、字幕も外国語を選択する。
 そして、あとはひたすらに鑑賞するだけである。
 できるだけ日常生活を舞台にしている作品が良い。
 SFや法廷サスペンスなどだと、特殊な用語がチンプンカンプンで肝心のストーリーすら見失うことになりかねないからである(経験者談)。
 慣れてくれば、字幕をOFFにすることもできる。たまに日本語字幕で見直しても、語彙の理解を深める助けになることだろう。
 そして、DVD鑑賞以外には、インターネットラジオという方法もある。
 今度は世界各国の生放送ではない。日本の誇る国営放送、NHKの多言語放送を利用するのだ。
 ■ラジオ日本オンライン(Real Player形式)
 驚くべきことに、日本国内ニュースを、英語はもちろん、アラビア語、ドイツ語、イタリア語、フランス語、ヒンディ語、中国語、韓国語、ベンガル語、スワヒリ語、タイ語…といった世界各国の22言語で放送してくれているのだ。
 日本国内のニュースだから、意味内容も把握しやすいだろう。
 また、内容がわからなければ、日本語で聞き直して、改めて意味を確認することもできるのである。
 このNHK多言語放送に出会っていなければ、もしかしたら死ぬまでペルシャ語を耳にすることもなかったのかもしれない。
 
 なお、文字媒体で日本国内ニュースを伝えてくれる英文サイトは、いくつか存在している。
 以下のサイトを文章音読ソフトなどを用いて、マシンに朗読させても良い勉強になる。
 ■Japan.com
 ■Japan Today
 ■Mainichi Daily News
 ■Ashahi.com
 
 (4)実際に話してみる。
 言葉を話してみることは、文章を読んだり聞くことよりも、ずっと効果的だ。
 その理由は、まず発話するということで、言葉自体が意識されるということ。
 そして、発話された音を聞くことで、記憶の定着が強化されるという効果もある。
 だらだらと英文を読むくらいならば、DVDで見た決めゼリフのひとつでも繰り返し口にした方が、よっぽど上達は早いだろう。
 思わず口に出したくなる決めゼリフや、クールなスラングは以下参照。
 ■海外TVドラマ&映画のセリフで英語を学ぼう!
 ■名言集
 ■英語のスラング
 ■TAKのスラング辞典
 
 なお、アメリカ留学をしていた妻・ザシキ師匠に英語上達法を尋ねたところ、以下のような回答が返ってきた。
 「ひたすら同じ文を聞くこと。実際に話してみること」
 乳幼児ではない我々にとっては、文法を学ぶことも、ある程度は必要になることだろう。
 しかし、それよりも盲目的に文章を覚えてしまう方が、よっぽど効果的なのだ。
 そもそも、文法を気にしながら発話していて、相手との会話など楽しめるだろうか?
 とにかく聞いて、話すこと。
 文法的に正しい文を記憶しつづければ、文法的に間違えることを恐れる必要もなくなる。
 もちろん正しい文法規則を推測できるようになるには、無数の文を暗記しなければならないが、それは乳幼児もやっていること。
 むしろ乳幼児よりも言語習得能力は劣っているのだから、努力する以外に道はないのだ。
 
 焦らず、弛まず、日々邁進と洒落込みたいものですな。
 加油!

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