
「儀礼的無関心」という言葉を聞いたことはあるだろうか?
社会学者E・ゴフマンが提唱した概念で、電車内では日常的に見られる現象のことだ。
人々が、見知らぬ他人に接触した際に、意識的に無関心を呈示をする現象で、見知らぬ他人同士のあいだで、不要な関わりが生じるのを避けようとしているものと考えられている。
現代の大都市においては、自分以外の人間は「知り合い」と「知らない人」に分類されるようになった。よそ者と違って、知らない人は「単に知らない人」に過ぎないのであって、個々人はそういった知らない人に対して多くの場合「無関心」に振る舞わなければならない。これを「市民的無関心civil indifference」と呼ぶ。この市民的無関心、つまりよけいなコミュニケーションをしないことこそ、都市生活を可能にしている相互行為上の条件なのである。
(http://www004.upp.so-net.ne.jp/tsutsui/lecture/sociology/sociology_06.htmlより)
だが、現在、インターネットで遊ぶことの多い人にとっては「儀礼的無関心」は、まったく別の意味を持つ言葉として用いられている。
すなわち、この用語を旗印に、ハイパーリンクの是非が問われたのだ。
ハイパーリンクはWorld Wide Webの根幹的な機能である。
リンクのできないインターネットなど、ページをめくれない雑誌と同じようなものだ。
だが、それでもリンク問題は以前から侃々諤々と議論され続けている。
姿を変え、形を変え…。
その根底に眠るのは、人間そのものに肉薄するほど根の深い問題なのだ。
はじめに「儀礼的無関心」という用語が用いられたのは「はてな」によると、TRiCKFiSH blogだそうだ。執筆者は松谷創一郎asTRiCK FiSH氏。
要約すれば「こっそり隠れて細々と運営されているサイトに対して、『リンクフリー』を合い言葉にバカスカと勝手にリンクを貼りまくるのは、そのサイトを潰すことにもなりかねないし、優しくない。だからこそネットにも『儀礼的無関心』が必要なのではないか?」ということになる。
もっとも、ここで言う「儀礼的無関心」は、その無関心の性質がゴフマンの提唱したものと異なり、あくまでもリンクを貼るか否か、という点だけに集約されるもので、少しばかり日本語訳に引っ張られた解釈のような気もしないでもない(笑)。そもそも対面接触を前提としたゴフマンの概念を、ネットに流用すること自体が難しいのだろう。
だが、たとえばオイラなどでも友人がこっそり教えてくれたサイトなどは、リンクを遠慮したりもする。
なぜならば、種々雑多な人が覗きにくる可能性があるわけで、そこに見られたくないであろう共通の友人などが含まれる可能性も高いからだ。
しかも、見られたくない理由として想定できるのは、別に嫌いだからというわけではなく、単純に恥ずかしいから、という理由である。
さすがのオイラでも恥ずかしがっている友人を晒し者にするつもりはない。
だが、見知らぬサイトに関しては話は別だ。
こっそり運営するという発想が、まずネットには存在しない。
現実世界の世界感覚や、物質的な比喩でもって、インターネットを理解することが、そもそも間違っているのである。
松谷創一郎氏が言うように、もちろんインターネットも現実世界に内包されるものであろう。
しかし秩序法則が異なるのだ。
現実社会では物理法則が支配するように、インターネット上では(見かけ上は)仕様というルールがある。ネットサーフィンは比喩でしかなく、エロサイトを見たからといって童貞を捨てたことにはならないことからもわかるとおりである。
そして法や道徳などは、特定の空間に影響するものではなく、あくまでも人間相互に影響するものであり、その意味で、現実社会だろうがネット空間だろうが納豆空間だろうが、人間が存在するかぎりは影響を与えうるものなのだ。だからこそ、ネット空間に固定資産税を課することも不可能ではなかったりするわけで(;´Д`)…怖い怖い。
この「儀礼的無関心」の問題は、最初に言ったように、それこそネットが人口に膾炙しはじめた頃から議論が繰り返されている。その当時、この問題は「無断リンク厳禁」という言葉に象徴されるように、まさに管理者vs管理者という構造の中での礼儀・マナーが問題になっていたわけだ。
そして、その問題は、結果的に世にもいとましき「ネチケット」という言葉にたどり着くのである。
ネチケット。 (;´Д`)
まずは具体的に「無断リンク厳禁」派の言説を読んでみてほしい。
■無断リンクを禁止するっ!:(註)最後まで読むべし
■毒吐きネットマナー
■玄奘三蔵法師のネットマナー説法
ネットマナーそのものは、人間同士の交流に関してはネットも糞もないわけで、大切なことではあろうと思う。もちろん「ネチケット」には、他人に強制したがために話がこじれたり、個人的な願望が、さも一般常識かのように語られたりと、さまざまな問題があったのも事実であるが、ここではあえて触れないことにする。
法律上で禁止されている著作権に抵触するような行為や、あるいはサーバに無駄な負荷をかけるような行為が禁止されるのは当然のことだが、ROMを禁止したり、カウンターを踏ませたりするのは手前勝手な都合でしかない。…気持ちはわかるが(笑)。
さて、以上のネチケットサイトを読むかぎりでは、リンクに関する要望は以下の1点に絞られる。
すなわち「家の比喩」に代表されるように、管理者の想定する秩序に絶対的に従うべきだ、という欲求だ。
そのことは「裏口から入るな。玄関から入れ」などという言葉に端的に表されている。
そもそもWebには玄関のように明確な入り口など存在していない。無数にあるファイルやディレクトリのなかのひとつを管理者が指定して、勝手に「ここが入り口です」と宣言しているだけにすぎない。
そして、たとえば同性愛をネタにしている婦女子のサイトなどで良く言われるように「同じ趣味以外の人には見て欲しくない」という要求も、同様に「家の比喩」から派生してきているものであろう。
つまりは客として認めたものしか招き入れたくはないという、まさに「マイホーム」感覚なのだ。
だからこそ、泥棒さんや顔見知り以外のお客さんは「お断り」なわけで、しかも「玄関」から礼儀正しく訪問し、きちんと挨拶をして、ホストファミリーの案内に従って家の中を歩き回るといった具合になる。
あくまでも彼らにとっては、自分が管理している領域は、自分の所有物かのような意識なのだ。
しかし、Webサイトが「家」ではないのは火を見るよりも明らかだろう。
つまりはネット空間を「家」のような現実の建造物に喩えることからして間違いなのだ。
管理者はマンションの管理人のような存在ではない。
むしろフリーマーケットの出品者のようなものなのだ。
膨大に並べられた「サザエさん」全45巻の中から、客が32巻だけ購入したとしても怒るわけにはいかないだろう。怒るくらいならば最初から紐で縛ってセット売りすればいいし、あるいは、そもそも出品しなければいいのだから。
いまさらだが、この海月舎のトップページ右下には「ディープリンク大歓迎!!」という文字が踊っている。
気がつかれた方は極めて少数であろうとは思う(;´Д`)…いいけど、別にぃ。
このディープリンクとは、いわゆるトップページ以外にリンクを貼る行為のことを指す言葉で、ネチケットサイトが口を酸っぱくして主張する「玄関から入れ」に真っ向から挑戦するような勇猛果敢な用語なわけだ(笑)。
よくある「リンクはトップページにお願いします」といった類いの文句なども、このディープリンクを禁止する婉曲的な表現だといえるだろう。
海月舎でいえば、左に智内兄助の画像が置かれたトップページではなく、いきなり個別の記事にリンクを貼るような行為にあたる。
つまりは、個々の記事にリンクを貼るトラックバックなども、結果としてディープリンクになるわけだ。
さて、このディープリンクだが、実際に外国では禁止されたこともある。
2002年7月にデンマークの下級裁判所が「ディープリンクは違法」という判決を出したということがあった。
簡単すぎるほど簡単に説明してみると、たとえば日本で言うならば、某ニュースサイト運営者が、毎日せっせと朝日新聞や産經新聞、Yahooニュースなどにリンクを貼りまくってコンテンツを構成していたんだけど、それが禁止されたということになる。
つまり普通のサイトのディープリンクとは、少しばかり状況が異なるわけだ。
そればかりか、隣国であるドイツ連邦法廷では、今度はまったく逆に「ディープリンクOK」の判決が出ていたりもするわけで、一般常識問題としては、一概に良いとも悪いとも言えないのが現状のようである。
だが、繰り返すがネットは、以下のWebの理念を元に構成されている。
●誰もが簡単に利用できるシステムであることこんな文を貼っていると「原理主義者」だとか「素人」だとか罵られることになってしまいがちだが(笑)、この理念を元にインターネットが発展して来た以上、それを無視することはオイラにはできない。
●どのような受信環境(ユーザやコンピュータ環境)でも情報を得ることができること
●誰もが簡単に情報を発信できること
●ハイパーリンクによって相互に参照可能であること
誰しもが最初は初心者である。
パソコンの操作法なども書籍やマニュアルなどから覚えることだろうし、HTMLやWebサイトの作成なども、方法はさまざまながら結局は勉強することになるだろう。
ならば、なぜ理念まで学ぼうとしない?
なぜ、日常の延長そのままの感覚で押し通そうとするのだ?
確かに道徳や理念など、無形のものは学ばれにくい傾向がある。
めんどうくさいからだ。
HTMLやBlogツールなどは使い方を覚えれば、サクサクと目的が遂行できたりする。だから学ぶ意欲もわいてくることだろう。
だが、理念は違う。
誰しもが看過してしまい、そしてそのまま日常感覚を密輸入してしまいがちになる。
人間は怠惰を好む。
そして、自分が悪いとは考えたくない動物である。
インターネットが世に登場したばかりの頃は、知的好奇心に満ちた先鋭的な若者やインテリ、キチガイなどにのみ開かれた空間として活用されていた。ネット空間は、それこそ魑魅魍魎の巣のように、多少リスキーな、危険に満ちた要素もふんだんに用意されていたというわけだ。だからこそ使用者たちは「Own your Risk」の気持ちで、それこそ自己責任の元でネットを彷徨い歩いていたのだ。
それが、今では小学生ですらネットに触れ、今後、高齢者の使用率も高まることが容易に予想されるほど、ネットがTVやエアコンのように「あたりまえ」の環境になってきた。
そして、その結果として、ネットも「安全であるように」と危険性が取り除かれ、あらゆる市民が安全に楽しめるようにと、去勢されてしまうことになることだろう。
怠惰は、えてして「安全」を求める。
喫茶店でお茶を啜っているときに、トラックが突っ込んでくることを考えている人はいないだろう。
それと同じように、歩道を歩いているときに、他の歩行者や自転車が背後から来ることを想定できる人も少なくなってきている。まさに歩道は歩行者天国、もとい自分天国かのように天真爛漫に振る舞うオバさんやサラリーマンたちを、そこかしこに見ることができるのが現状だ。
しかし、歩道は安全ではないのである。
本当にトラックに突っ込まれた経験のあるオイラは、そう断言する(;´Д`)油断しちゃダメだ。
要するに他人に対しての想像力が失われ、
自分が良いようにしか行動できなくなっているのだ。
タバコの話でも書いたが、自己責任能力に欠ける子供を外に連れ出すならば、親は絶対に目を離しちゃいけない。
人ごみなら、なおさらだ。
他人様に迷惑を掛けるかもしれない。
子供が事故に遭うかもしれない。
社会が共有スペースだという想定がなく、まるで我が家の延長のように勝手気ままに振る舞って、子供がタバコで失明したり、転んで怪我をしたとしたら、それは、ある意味、親の責任でもあるのだ。
もちろん、いきなり薬物でラリッたオッサンが拳銃を乱射する可能性もあるわけで、そんな状況に対しても「親の責任だ」などというつもりは毛頭ないし、そもそも議論する気もないが、少なくとも、あらゆる状況で油断することなく危険予測をすることと、社会を共有する他人への想像力が大切なことには共感していただけることだろう。
自分の安全まで他人の手に委ねてはいけない。
たとえば中学生がこっそり日記を書き続けてもいいだろう。
だが、公衆の面前に触れる可能性があることは肝に命じておくべきだ。
そして、その結果として2ちゃんねらーにリンクされたり、蹂躙されたりする可能性も、きちんと考慮しておくべきであろう。
訪問者が「儀礼的無関心」を心得た人ばかりとはかぎらない。
どうしても他人の目に触れさせたくなければ、大学ノートを買って来ればいいだろう。
ネットを利用して、少数の友人だけに公開するならば、絶対にリンクは貼らないことだ。
また、検索エンジンのロボットが足跡をたどってやってくるようなことは絶対にしてはならない。
どこぞに自分のアドレスを記載するなど、もってのほか。
口の軽そうな友人などにアドレスを教えてもいけないだろう。
技術的にはパスワード認証やアクセス制限なども可能であるから、少しばかり勉強すれば目的は見事に達成されることであろう。
いくらでも方法はあるだろう。
そして、たったひとり、Webにデータを公開しようとする管理者だけが、わずかばかりに努力するだけで解決することなのだ。
それなのに、何故、不特定多数の閲覧者にマナーを強要しようというのか?
具体的に考えてみよう。
管理者ひとりが苦労することと、多数の人間が変わることと、どちらの方が実現されやすいだろうか?
そして、わずかばかりの努力を放棄する管理者などが「儀礼的無関心」に振る舞えるほど優しい閲覧者になることができるだろうか? えてして、その努力も放棄されるのではないだろうか?
小学生たちがWebに進出するようになり、実際にさまざまな問題が起こっている。
実際に小学校で実験したところ、記名されるような方式でのチャットでは現実世界と同じような秩序が保たれたものの、匿名チャットに切り替えてみたところ、ものの数分で罵倒や荒らしなどが始まったという。
互いに顔の見えない環境では人間など容易に非道徳的に転ぶものである。
子供ばかりではない。
あれだけ「老人には席を譲りましょう」と道徳的な優しさを主張する老人たちも、いざお腹の大きな妊婦を目の前にすると、黙りこくって、さも疲れたように俯いて席を譲ろうとはしない。そればかりか、満員電車であっても強引に身体をねじ込ませ、他人を押しのけてでも良い場所を占めようとするし、疲れてくると他人に寄りかかって休み始め、若者の生理的嫌悪感を容赦なく刺激してくれる始末だ。彼らが日常的にネットを利用するようになったら「老人にはチャットルームを譲りましょう」などという道徳的ルールができるのではないだろうかと、オイラなどは戦々恐々として夜もあまり眠れない有様だ(笑)。
日本の将来は、あまり明るくないのだろう。
結局のところ、道徳的な行為が他人にまで強制されるようになり、ルールになった段階で、その背後にあった優しさは死滅することだろう。
老人には席を譲る必要はない。
なんとなく目の前の人物が大変そうだと思ったら、譲ってみるのが優しさなのだ。
他人への想像力、共感力こそが大切なのであって、杓子定規に動くロボットに用はない。
わざわざ「儀礼的無関心」などというご大層な用語を振り回す必要もなく、ほんのすこし、この管理者がどのような人間なのかを想像すれば、閲覧者がどうすべきかは理解されることだろう。
たかだか、それだけで良い。
わざわざWebの理念まで否定したりする必要もない。
ハイパーリンクは常に可能なものである。しかし、貼るのも貼らないのも自由だ。
ダメとか悪いとかの問題ではなくて、リンクするかどうかの判断は各自に任されている。
要するに、自分自身の脳味噌で考えやがれってことだ。
もちろん自分の頭で考えることは難しいだろう。
たぶん「儀礼的無関心」をルール化し、盲目的に従う方がよほど簡単なことだろう。
そして.htaccessを勉強して、見知らぬ閲覧者を弾くことの方がよほど簡単だろう。
それほどまでに人間は考えることを放棄しがちだ。
敷居が高いか?
だが、考えることは別にネットだけに必要なわけではない。
逆にいえば、ネットで考えられない人は、どこへ出しても恥ずかしくない「御迷惑をお掛けいたします」な人である可能性が高いといえるだろう。
だからこそ、ネットであっても現実社会であっても、自分の脳味噌で考えることを学ぶ機会を奪ってはならないのだ。
学ぶということは自分を変えることである。
過去の自分を否定する勇気が必要になる。
老人、子供には少しばかり難しいかもしれない。
老子曰く「大道廃れて仁義あり」
忘れてはならないのは、優しさを装ったおせっかいが、他人の考える能力を去勢してしまうということ。
それが優しさならば良い。
おせっかいでないことを祈るばかりである。
以下は「無断リンク」問題で、賛成派のリンク集。
もちろん無断リンクしてますが(笑)。
■ウェブサイト公開に当たっての意見一問一答形式
■無断リンクを禁止するっ!
■「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問題集
■リンクの諸問題
■Linkは自由でありたい
■仮説:無断リンクを禁止しても良い
■リンク禁止・無断リンク禁止はナンセンスですよ!
■リンクとマナー
■ディープリンクは悪いことか
読みましたよ(疲
小学生のリンク先、グーグルの検索ワード、最初よく理解できませんでした(笑
高齢者のリンク先、死んでません?(俺だけ?
感想・・・というか、「結論は、どれですか?」(愚問)
> 要するに他人に対しての想像力が失われ、
> 自分が良いようにしか行動できなくなっているのだ。
そうそう。
なので、自分の正義を他人に押し付けられるのは、かなりムカつきます。感情論ですが。
老人の椅子にしても、ネチケット(相変わらず、恥ずかしい語感だ)にしても、無断リンクうんぬんにしても。
郷に入れば郷に従え、とまでは言いませんけどね。
そこらへんのバランス感覚が「道徳」なんじゃないっすかね?
論理的裏づけまでは面倒だからしない、というか出来ないが。
推敲なしの思いつきばったりコメントですまんです。
結論は以下。
1)リンクは原則、自由である。
2)貼るか貼らないかも、人間の自由である。
3)貼って良いかどうかの判断は、各自の自由である。
たったこれだけを言うのに、あんだけ長文書きました(笑)。
油断すると、日本という閉鎖空間では、すぐにルールを決めたがるシキリタガリヤーという魔物が出没するので、気をつけましょうね。
道徳を語る奴ほど、まあ、他人の痛みがわからない人はいないような気がします。まあ、彼らにとっては人間よりも道徳優先ですから。そのように洗脳されてますから。
路上にウンコして寝る喜びは、彼らには永遠にわかるまい。南無。
つーか、長文読んでくれて心の髄よりサンクスコヽ(´ー`)ノダンケシェーン