›2005年 3月 20日

[ 範疇 : 哲学 ]

フィロゾフィ事始め

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 最近の悩みは、哲学関係の記事を書くとガクッと訪問者数が減ることだ。
 気持ちはわからないでもないが、そんなに面白くない記事を書いているつもりもない。
 それに哲学はオイラの日常生活である。
 アイドルオタクが、たとえば蒼井そらに関する記事を書かずにブログを運営しているとすれば、それはやはり自分自身を殺してしまっていると言えるのではないだろうか?
 海月舎にとっても哲学は最後の生命線である。
 
 この危機的状況において、オイラが選択できる戦略は以下の2つであろう。
(1)哲学ネタをやめて、アイドルネタだとか一般受けしそうな記事を書く。
(2)読者の方々にも哲学好きになってもらう。
 
 

大嫌いなアイドル
 なんとなく大塚愛の画像を貼ってみたりして。…嫌いだけど。

 
 つーことで、皆さんを哲学地獄に御招待いたします!!(笑)
 とりあえず哲学の謎に触れてもらおうという今回の企画。
 いかに我々は不思議な世界に生きているのかを、ほんのすこしでも感じ取ってもらえれば幸いです。

 まず哲学とは何か
 よく「人生哲学」だの「経営哲学」などという単語がオッサンたちの口から飛び出しては、若者たちへの苦言として語られますが、それは厳密な意味での哲学ではありません。
 むしろ個人が勝手に信仰している宗教のようなものです。
 哲学とは決して物事への方針を与えるものではなく、誰かに「〜すべし」という命令を与えるものでもありえないのです。
 
 哲学とは世界という謎を解明していく営みです。
 腕時計を解体して、その仕組みを調べていったとしても、そこに「腕時計は〜のように扱わねばならない」という命令は生まれないでしょう。あるのは、あくまでも機械的な歯車やネジの類いであって、誰もが守らなければならない道徳のようなものは存在していません。
 唯一、腕時計を壊したくない人は「大切に扱わねばならない」だとか「水に濡らしてはいけない」という教訓を得ることがあります。しかし、それはあくまでも個人の趣味の範囲であって、やはり誰しもが従うべき命令ではないのです。時計が動かなくなることが厭な人だけが、水に濡らさないよう注意するわけです。それは時計の構造とは無関係の、やはり個人の趣味の範囲です。
 その時計に対して、誰かがどのように関係を持っていくかというのは、時計そのものとはまた別の問題なのです。
 
 つまり、哲学とは、解剖学や物理学と同じように、物事が何であるのか? どのように動いているのか?を解明していくだけの単純な学問なわけです。
 そして、時計の内部構造を知らなくっても現在時刻を知ることができるように、哲学を知らなくても生きることには困りません。ぶっちゃけ哲学は有益な学問ではないのです。
 
 そして、だからこそ哲学は難しいのです。
 別に言葉遣いが難しいとか、用語が難解というわけではなく、哲学は難しいものなのです。
 何故か?
 それは、哲学が「あたりまえ」とされている日常世界を分析するからです。
 腕時計を解体したときに変な歯車を見つけたとします。その歯車が「あたりまえ」の働きではなく、人間の想像を超えるような働きをする特殊な歯車だったとしたら、今まで「あたりまえ」だと思っていた歯車の働きも、改めて考え直す必要がでてくるのです。
 「あたりまえ」があたりまえではなくなる。
 だからこそ、哲学は難しいのです。
 
 哲学では「アポリア」と呼ばれる超難問がいくつかあります。
 たとえば主観/客観問題もそのひとつです。

 あなたの目の前にコップがあります。
 メガネをかけている時は、はっきり見えますが、裸眼だとボンヤリとしか見えません。
 またサングラスをかけると、コップは黒くなります。
 どのコップが本当の姿でしょうか?
 
 さらに高性能の顕微鏡で見ると、いままでコップだと思っていたものが、陽子と電子で構成されたスカスカのものだと気がつきました。
 遠く離れたところで見てみると、今度はコップが点にしか見えません。
 どのコップの姿が正しいのでしょうか?
 いままで近視の人がメガネ無しで見ているボンヤリとした世界は「本当の世界ではない」」と思ってはいなかったでしょうか? 視力2.0の人が見るような明確に物事の輪郭が見て取れる世界こそが「正しい世界」の姿だと思ってはいなかったでしょうか?
 だとすると、電子顕微鏡で見る世界の方が、より「正しい」世界だということになります。
 しかし、風景明媚な観光地を一望するような高台に立って「顕微鏡で見るような本当の世界の姿じゃない」と悔やむ人はいないでしょう。世界は細かく見えれば良いわけではないのです。
 むしろ「正しい姿」なんてものを求めるから話がこじれていくのです。
 では、私たちは映画「マトリックス」のように、幻のような実体のないものを勝手に見ては生きているのでしょうか?
 しかし、たとえば右手に持った江戸切り子のグラスを、友人に手渡す場合、まさか「これは幻である」などと考えている人はいないでしょう。右手には本当に「江戸切り子のグラス」を持っていると思って、友人に手渡しているはずです。だからこそ友人はそのグラスを受け取ることができるのです。
 では、その「江戸切り子のグラス」は、この世界でどのように存在しているのでしょうか。
 さらに一般に話を拡大してみるならば、問題は次のように一般化されます。
 私たち人間全員が共通する「客観的な世界」に生きているとすれば、モノはどのように存在しているのでしょうか。

 そんな日常生活にありふれた物事ですら、哲学では疑ってみます。
 「あたりまえの世界」から「あたりまえ」を剥ぎ取っていくのです。
 だから哲学は難しくなります。
 
 もうひとつ、有名なアポリアである自我/他我問題も紹介してみましょう。
 近代哲学がデカルトの「我思うゆえに我あり」から始まったというのは、よく言われていることなので知っている人も多いことと思います。よく誤解される言葉ですが、簡単に言えば「自分が考えているということまで疑っては何も考えられなくなってしまうので、とりあえず自分自身が考えているということだけは正しいことだと仮定しよう」みたいなものです。
 しかしデカルトに言われるまでもなく、自分が知ることができるのは自分自身のことだけです。見た目はさておき、他人の考えていることなど理解することはできません。
 では、自分以外の他人は、どのように生きているのでしょうか?
 他人には自分と同じような意識があるのでしょうか?
 はたまた、親しい友人がロボットではないと、どうして断言できるのでしょうか?
 

オイラ「あ、大塚愛だ」
大塚愛「私はアンドロイドよ」
オイラ「嘘だぁ。泣いたり笑ったりするじゃん」
大塚愛「そうやってプログラムされているだけ」
オイラ「歌も下手だし、なんかムカつくじゃん」
大塚愛「ひどいっ!」(といって泣き出す)
(耳を澄ますとモーター音。涙腺にポンプが塩水を送り込む仕組みになっている)
オイラ「嘘泣きかよ! 騙された! 石投げてやれ!」
大塚愛「最初から嘘なんかついてないもん! そういうプログラムなんだもん!」
 道徳の授業では、よく「他人の痛みがわかるような人になりましょう」と教えられます。ですが哲学者は拒絶します。
 「他人の痛みなど理解することは絶対に不可能」
 しかし、自分以外の人間はすべて「他人」なのです。
 たとえば、オイラにとって読者の皆さんは(残念ながら)永遠に理解することのできない「他人」です。
 しかし、この記事を貴方が読んでいるとき、執筆者であるクラゲ庵が今度は「他人」になるわけです。
 オイラ自身からしてみれば、クラゲ庵は他人ではなく、もちろんロボットでもなく、自分自身だったはずなのに、いつのまにかに正体不明な「他人」になってしまうわけです。しかし、いかにオイラが力説したとしても他人には、このクラゲ庵の胸の内は理解されることがありません。
 はたして、私たちはどのように他人のことを理解しているのでしょうか?
 どのようにして私たちは他人と出会うのでしょうか?
 
 友人との会話なんて、ものすごく「あたりまえ」のことでしょう。
 しかし、哲学からすると、それは物凄い奇跡であり、驚くべき現象なのです。
 だって、理解することができないはずの他人と気軽に話しているんですよ!
 
 「あたりまえ」の向こう側は、確かに難しい世界だけど、新鮮な世界でもあるのです。
 哲学は平凡な世界を切り開き、まったく新しい世界を見せてくれます。
 もはや、他人との関係でクヨクヨと悩む必要はありません。
 むしろ他人そのものが不思議なことであり、疑問になってきて、悶々と悩むハメになります。
 
 このように哲学のネタは皆さんの身近にゴロゴロ転がっています。
 あとは、そこに問題が隠されていることに気がつくだけです。
 
 …「あたりまえ」だからこそ、それが難しいのですが。
 
 そのセンスを磨くために、哲学の歴史に触れてみるのも良いでしょう。
 いままで紹介してきたような世界の哲学的な難問に対して、さまざまな哲学者たちが答えてきました。それを読むだけでも、哲学がなにを問題とするのか、雰囲気だけでもつかむことができるでしょう。
 あるいは他の哲学者の解答のなかで、お気に入りのものを見つけ出すかもしれません。
 もしくは、まだ誰も考えたことのないような、斬新な答えを自分で生み出すかもしれません。 
 
 哲学には資格も権威も必要ではありません。
 ただ、論理的に正しく考えること。
 哲学にある制限はそれだけです。
 
 是非とも自分自身が生きている、この世界に対して哲学していって欲しいものです。
 そして、海月舎がそのささやかな手助けになることを切に願っております。

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