
環境を守ろう。自然を守ろう。
すっかり陳腐な言葉になってしまった。
そんなこと誰だって知っている。
言われなくてもわかっている。
だが、実際に自然を守っている人はどれだけいるだろうか?
誰だって将来の地球資源よりも、まさに今現在の自分自身の方が可愛いだろう。
だからこそ、地球の自然を守るためにはコツがいるのだ。
その秘訣とは…金銭なのである。
2004年にノーベル平和賞を受賞した環境運動家ワンガリ・マータイさんが、毎日新聞社に招かれ、2005年2月に日本を訪れた。
なぜ環境保護運動がノーベル平和賞につながるのか?
ひとつには貧しい女性たちを原動力に環境保護運動を推進してきたことが理由に挙げられている。
だが、より重要な理由としては、貴重な地球資源をめぐって、アフリカで紛争が起こっている現実があり、それを回避するためには地球資源を保護するしかないということ。
長期的な視野に立てば、イラクに兵士を派遣するよりも、ずっと平和につながるという考えだ。
マータイさんたちの運動は「グリーンベルト運動」という。
具体的に運動の内容を説明すると、当初のプロジェクトでは参加者に種子を与え、育成してもらい、その苗木を植えると、わずかながらも報酬を与えるというシステムになっている。
そして、マータイさん本人がTVで言っていたことなのだが、その報酬が目的でグリーンベルト運動は拡大していった部分もあるというのだ。
そう。
人間、キレイごとだけでは生きられないのである。
なぜ自然を破壊するのか?
それは単純に金になるからである。
だったら逆に金になるならば、誰しもが積極的に自然を守ることだろう。
それを見抜いたマータイさんの慧眼には驚きを隠せないとともに、それこそ資本主義の基本中の基本なわけで、それを看過していた経済学者や社会学者には落胆を隠しきれない。
ナショナルトラスト運動ってのもあるが、あくまでも問題意識を持った有志によって行われる運動なわけで、どうしたって個人の善意や価値観などが大きく影響してしまう。つまり、誰しもができる運動ではないわけだ。
だが、グリーンベルト運動は違う。
悠々自適に暮らしていると思っていたホームレスですら生きるために、自動販売機の釣り銭の出口を探り歩き、段ボールを回収し、空き缶を集めては日々の銭を稼いで生きている。
いわんや、日々、金銭を得るために働き、収入を競い合うような平凡な市民たちや!
自分たちが利益を得たいという利己心が、そのまま自然保護に結びつくのである。
やはり、卓越したアイデアだと言うしかない。
資本主義の考え方では、どうしても自然は消費されるものでしかない。
いくら自然が大切だとしても、その森林をそのままに維持している場合と、そこを開拓して工場を建てた場合とを比較してみれば、どうしたって工場を建てた方がゼニになる。
人間の労働が存在しないところでは、膨大な利益はあまり期待できないと、マルクスというおっさんも言っていた。
自然を守るためには、その自然を開発した場合に想定される収入と同じくらいの金銭を維持費として地域住民に与えるべきである。
そうすれば、わざわざ自然を破壊する理由もなくなる。
そもそも自然は地域住民のものである。
わずかな農作物で食いつなぐ生活よりも、アメリカや日本のように食べ物の余るような飽食の生活に憧れるのは当然であろう。それは人間が愚かなのではなくて、そういう価値観の横行する社会だからだ。
そんな憧れを、他所の国が禁止する権利はない。
そして、どんなに別の国のことでも、密閉空間である地球上の出来事である。
中国でガンガン二酸化炭素が放出されれば、地球全体の二酸化炭素も増えるのである。もっと極端に言えば、あなたが吐いた息の分だけ地球上の二酸化炭素は増加するのである。
たとえば地球上の植物が枯れはじめ、日本に生えている植物だけが唯一生き延びいたとしよう。だからといって、日本人だけが生き残れるわけではないのだ。
いわば自然にとっては国籍など飾りにすぎない。
だからこそ、地球全体のことを考え環境を保護し、同時に、そこに住む地域住人も損しないように計らわねばならない。
しかし、たとえば日本政府が東南アジアの熱帯雨林を保護するために、そこに工場などを建築した場合の利益を計算し、それと同額の現金を森林維持費として現地住民に与えたとしよう。
もちろん、ただ金を与えるだけではなく、きちんと熱帯雨林が維持されるように、細かい維持作業や監視パトロールなどに対しての対価として、その国家に支払われる報酬なわけだ。
その場合、日本はボランティアとして、ただ金を流し続けるだけなのであろうか?
現状では残念ながらそうなってしまうだろう。
そして利益を求めない純粋なボランティアなど、定着しないということも忘れてはならない。
だが、資本主義、いや人間の本質として、イメージすらにも良い価値を求めるという姿勢がある。
つまりは良いイメージを金で買うこともありうるということだ。
エコロジーなガソリンは値段が高い。
この高価なガソリンが本当に普及するためには、そのガソリンを利用することがステイタスになるようなイメージ戦略が必要になる。
たとえば車にステッカーを貼ったり、よりイメージ戦略に焦点を絞ったCMを流したりして、社会全体にエコロジーなことが「かっこいい」ことだというイメージを形作る必要が出てくる。そして、そうしないかぎりは永遠に高価なガソリンなど普及しないのだ。
それと同じように、熱帯雨林の維持費を支払うことが「良い」というイメージを形作るべきなのである。そして、いわば日本政府はそのイメージを金で買うわけだ。
そのイメージが定着していれば、日本政府が東南アジアの熱帯雨林のために金を支払うこともありうることだし、それによって地球規模で環境破壊は抑制され、それでいて現地住民は現金収入を得るという、それぞれにメリットのある等価交換が成り立つことになる。
それこそ資本主義だろう。
もちろん、打算的な考えから生まれた行動は、道徳的とは呼びがたい。
だが、その行為から生まれる結果は大いに賛成できるものではないか?
むしろ環境保護を道徳の範疇から救い出し、純粋に「利益目的」の行為に設定し直すべきである。
間違いなく言えることは、自然を保護することは利益を得ることだということ。
だったら、利益として自然保護を目指しても良いだろう。
そして、道徳的でない人間すらも巻き込み、自分自身のメリットのために自然を保護するような時代が来ることを、私は心の底から期待して止まない。
まずは自分のできることから。
自然を讃えよう。
実際に自然保護をしている人を尊敬しよう。
そして、それを話題にしよう。
まずは自然のイメージ改革から。