›2005年 2月 19日

[ 範疇 : 倫理の小道 ]
[ 範疇 : 哲学 ]

密室での倫理学は不倫な夜か?

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 「倫理学」というと、どのようなものを想像されるだろうか?
 私が高校生の頃などは「哲学」と聞いても全然ピンと来なかったのがいうのが正直なところだ。残念ながら、もしくは幸いにして、我が母校には倫理の授業がなかったのだ。せいぜい世界史の授業の中で登場するプラトンやソクラテスなんかの知識を、午後の惰眠を貪りながら、スナック菓子感覚で摂取しては耳から耳への通行手形を渡していたような具合である。
 むしろ、その当時は老荘思想を始めとする東洋思想に興味を持っていた。
 だから「哲学」というと「処世術」のような印象くらいはあったのかもしれない。
 
 それが覆されるのは、哲学に衝撃的な出会いをした大学3年生、二十歳のことである。
 
 しかし、私だけではないだろう。
 一般に哲学というと、どうしても「処世術」や「教訓」「教え」のような印象が拭えないのではないだろうか。そして、それが「倫理学」ともなると、さらにそういった印象は強まることと思う。
 
 今回は以下のテキストをめぐって、倫理学のごく一部を話題にしていく。
 それによって、倫理学の片隅にでも興味を持っていただけたら幸いである。
 
 なお、私は以下の書籍をまったくオススメしていない。
 かなり以前に読んだのだがムカムカして、何度も壁に叩き付けながら読み終えたのを覚えている。
 

小説・倫理学講義
笹澤豊『小説・倫理学講義』講談社現代新書
¥693

 テキストの39ページ以降には、第2章として以下のようなテーマが扱われている。
 大まかな流れとともに紹介しておこう。

「不倫はいかにして可能か」

【不倫が道徳的に許されないのは何故か?】
 共同体社会は結婚制度を土台に築かれているため、結婚制度を破壊する不倫行為は、その社会を脅かすことになるから
【嘘をついても許される場合はあるのか?】
 道徳を頑に厳守するよりも、嘘が優先される場合がある。
 <実害なき密室での違反>も、社会を脅かさないので道徳的に許される。

 ちょっと細かに説明していこう。
 まず、最初の論点は、それなりに理屈は通っている。
 しかし、冷静に考えてみれば、どれだけ結婚が社会制度の土台になっているのだろう?
 もしくは結婚さえしていなければ、社会を脅かさないという理由で、あらゆる男女の浮気は許されるというのだろうか?
 さらに私のようなロマン主義的恋愛主義者からすれば、もちろん不倫は許せないのだが、不思議なことに、別の相手と恋愛をするために離婚することは、かなり感情的には許せてしまうのだ。
 だが、離婚も不倫と同様に、結婚制度を根幹から脅かすものではないか?
 
 次に第二の論点に関してだが、まずテキストで話題にされている「嘘が優先される場合」というのは、たとえばナチスドイツの保安警察が家に来た時に、正直にユダヤ人家族を屋根裏にかくまっていることを教えるような場合のことだ。そういう状況設定から「神聖なる絶対的な道徳」よりも嘘が優先される場合もあると話が進められる。
 だが、そういった特殊な状況設定と、不倫を隠すために嘘をつく場合とを、一緒にしてしまっても良いのだろうか?
 不倫で嘘が許される場合というのは、上述の論点から導くと、逆に難しいのではないだろうか。

 そして<実害なき密室での違反>とは、他の誰にも気づかれることがなく、誰にも迷惑をかけない、道徳に反する行為のこと。
 具体例を挙げれば、たとえば誰も見ていない密室で小学生と中年オヤジが毎晩のように援助交際を繰り返すようなことも<実害なき密室での違反>と定義されるのだろう。あるいは難破して今にも沈もうとしている豪華客船から金貨や宝石などを盗む行為も<実害なき密室での違反>になるだろう。
 そして、たとえば私と酒井若菜が口外にしない約束で秘密裏に浮気したとしても、誰にもバレることがないので実害がなく、社会を一切脅かさないので道徳的にも許される、ということになるらしい。
 だが、ちょっと待て。
 つまりバレなきゃ何をしても良いってことか? 
 そして「誰にも迷惑をかけない道徳に反する行為」って何だ?
 それって道徳に反しているのか?
 そもそも道徳って何だ?
 
 まず、不倫に関しては、道徳以前に法律で許されていない
 貞操義務ってのが民法上、夫婦には予定されているものとして記載されているからだ。
 では、不倫とはなにか。
 民法上では「不貞行為とは、自由意志に基づき、ある程度継続的で肉体関係を伴う男女関係」だと解釈されているらしい。
 
 どっちにしろ、法律上許されないのだから、道徳をいくら論じたとしても、不倫はダメゼッタイなのだ。
 
 では、結婚していない状態でなされる浮気はどうなのであろうか?
 もちろん法では規制されていない。
 しかも社会の土台を脅かすものでもない。
 そう。ここにいたって初めて哲学を論じることができるのである。いままでは言葉遊びやディベートみたいなものでしかなかった。ここからが面白くなるはず…なのである。

 たとえば<実害なき密室での違反>として、浮気が行われたとしよう。
 そして、その事実は絶対にパートナーの耳に届くことはないと仮定しよう。
 その場合、浮気は是か非か?

 私の倫理観からの回答は「非」である。
 私は浮気を許すことができないのだ。
 何故か?
 いかに隠し通したとしても、浮気をしたという事実は事実だからだ。
 
 まず第一の前提として、恋愛関係にある彼氏/彼女たちは、暗黙のうちに肉体占有契約を結んでいることを忘れてはならない。
 なぜ肉体だけか?
 くわしくは別の記事にくわしく書いたので細かい説明を省くが、「好き」という告白を互いに容認しあうということが、なにを意味するのかを冷静に考えればわかることである。
 つまりは「好き」という言葉がどこまで許すのか? ということだ。
 たとえば精神的には本当に狂おしいほど好きだけど、肉体的には綺麗なままでいましょうね…なんて言って、互いに別の恋人がいるって状況は、純小説としては面白いかもしれないが、現実的には「好きと言っておきながら、なんでアイツとつきあってんだよ!」と怒り心頭になることは火を見るよりも明らかであろう。
 ゆえに、まずは、恋人関係において浮気という事実があってはならない、となる。
 
 では、事実とはなんだろうか?
 「認識されないことは存在しないことと同じことだ」とでも言いたいのか?
 なるほど、こいつは哲学的な発想だ!!(笑)
 その考え方からすれば、認識さえしていれば存在していることになるのだろう。
 では改めて聞くが存在って何だ? 人間の認識ごときで存在したり、存在しなかったり、やたらと左右される程度のものなのか?
 さらに言えば、人間は自分自身の脳味噌を知覚することができない。ゆえに、上のような発言をする人物は、自分に脳味噌が存在しないと明言していることになる。…まあ、間違ってない可能性の方が高そうだけど(笑)。
 
 手垢のついた「存在」なんて言葉を使うのは辞めておいたほうがいい。
 余計に話を混乱させるだけだ。
 我々は日常的な言葉で生きている。
 日常的な言葉で、日常的な感覚を表現できない「哲学」にどのような意義があるだろうか?
 そういう専門用語は、哲学史でメシを喰っている「プロ哲学者」たちに任せておけ。
 
 事実とはなにか?
 実際に起こった出来事である。
 何処で?
 人間のいる世界で、だ。
 
 私がたとえば白昼夢を見て「事実」だと主張しても誰も見向きもしない。
 「出来事」が「事実」になるには、人間共同体のフィルターを通さなければならない。
 それが、たとえば「常識」というフィルターであり、現代では「科学」というフィルターである。
 周囲に誰もいなかったとしても、その常識的な判断は1人でも可能なはずだ。
 そして、その判断がどんなに哲学的に間違っていようが、それが「世界共通の事実」になるのだ。
 残念ながら、その哲学は世界共通の常識ではなかった、というわけだ。
 もちろん私が見ていない世界の裏側での出来事も、同じ基準を通過することによって、私の「事実」となることができる。そして、もちろん、その判断の根底には、とりあえず他人が自分と同じように存在しているだろうという適当かつ乱暴な仮定がなされているわけだ。

 専門的には「言語ゲーム」というキーワードで理解されるだろう。
 
 たとえば私が<実害なき密室での違反>とばかりに、んーと、たとえば林智美さんと隠れて浮気をしたとしよう。で、その事実は見事に隠されたわけで、2人の他には誰もしらないわけだ。ある時、私が口をすべらし、つい友人に話してしまったとする。すると友人は笑って言うわけだ。
「莫迦だね、お前みたいな醜いサルをローラーで轢き潰したような男が、そんな美女と一夜を共にするはずなどあるわけないぢゃないか。作り話も程々にしたまへ」
 もしかして夢を見ていたのかもしれない、と不安になった私は、電話をかけて林智美本人に確認してみるが、彼女は秘密を守ろうとするあまり、その事実を否定する。つまり、その出来事を証明する方法は一切なくなってしまったわけだ。
 それでも、通常では、自分の記憶に残された印象などから、事実だと断言することが可能であろう。
 だが、たとえば私が精神鑑定にかけられて「判断能力に欠ける」と診断された人物だったと仮定してみよう。その場合、いかに私が浮気の事実を主張しようとも、そんな事実は存在しなかった、と判断されてしまう可能性があるわけだ。つまりは、妄想を事実と錯誤してしまう可能性があるということだ。
 もしかしたら、私が経験したと思っていたことは妄想だったかもしれないのだ。
 では、問題。
 その場合、浮気をしたことは事実なのか?
 
 答え。
 妄想から脱却できないかぎりは、私自身にとっては「事実」である。
 だが、私以外の全世界の人々からすれば「事実」ではない。私は精神錯乱したキチガイだというだけの話になる。
 
 逆に言ってしまえば、本気でキチガイになれば、あらゆる夢が叶うわけだが(笑)。
 全世界を手中に収めることもできるし、あらゆる美人女優とエッチし放題ってのも揺るがしようのない「事実」になるわけだが、あくまでも誰にも認められない妄想の中での「事実」というわけだ。
 
 では、それを踏まえた上で本題に戻ると、<実害なき密室での違反>は、どんなに否定したとしても自分自身の中では揺るがしようのない「事実」なのである。ゆえに「浮気は行われた」のである。
 それは恋愛関係においては契約違反にあたるわけで、だからこそ「バレなくても、ダメなものはダメ」という結論になる。

 では、何故に私は「ダメ」と連呼するのだろう?
 そもそも行動の善し悪しといった評価は、なにを基準になされるのだろうか?
 
 この議論のキモは、「絶対にバレない」という確証不可能性にある。
 確かに、浮気な肉体関係があったかどうか証明できない場合には、追及されてもシラを切り続けることは可能であろう。だからこそ浮気調査の探偵会社などが活躍する場を与えられるのである。
 しかし、自分が損害を受けないからといって、なにをしても良いのだろうか?
 
 自分さえ良ければ良い。
 他人に迷惑をかけると社会的な制裁を与えられ、いろいろ不都合になる。
 だから自分のためにも、他人には迷惑を掛けない。
 こういう考え方を倫理的利己主義という。
 その考えでいけば、自分が被害を受けることのない<実害なき密室での違反>は無問題ということになる。だからバレない浮気ならば、毎夜繰り返されたとしても問題がないというわけだ。
 
 ぶっちゃけ、才気走った初学者の学生さんが抱きがちな考えだが(笑)、残念ながら間違っている。
 たとえば絶対に被害を受けないような状況でも道徳感情はわいてくる。
 真冬に捨てられてガタガタ震えている子ネコを拾ってくるのは、純粋に道徳的な行為だ。
 拾わなかったからといって末代まで祟られるとは、さすがに誰も考えていないだろう。そして、ネコを拾うという行為が、他人に「いい人」だと思われるためになされているというのも考えがたい。現代のネコ好きのあいだでは「無責任にネコを拾ってくる方が、ネコのためにもならない」と、シビアに考えられているからだ。
 
 浮気の場合であっても、実害があろうがなかろうが無関係に、道徳的に「しない」ということが想定できるのである。そして、パートナー契約においては、肉体の相互占有契約が暗黙のうちに交わされている。ゆえに浮気はしてはならないのである。
 …嘘だと思うなら「バレないように浮気はしますよ」と、愛の告白をする時にでも言ってみればいい。
 まぁ、お互いにそれで納得する奇妙なカップルもいるだろうが、それなどは中途半端な学問による弊害なわけで、私から見れば変な宗教に入信しちゃってるなぁとしか思えないわけで。
 
 さて、ここまでの議論で、ある程度は「不倫肯定派」を否定できたことと思う。
 だが、今度は理屈っぽい哲学マニアが口を挟んでくるわけだ。
「ちょっと待て。過去の事実なんてものが存在するのか?」
 彼の主張としては、こうなる。
 百歩譲っても現在進行形の「いま」に起こっている出来事は事実なのかもしれない。
 だが、それが過去に過ぎ去った場合、その過去の存在を証明するのは記憶だけである。
 それこそ妄想かもしれない。何故そんなものを信用するのだ?
 
 彼は気がついていないのかもしれないが、過去、現在、未来というキーワードは禁断の言葉なのだ。
 その言葉によって、いままで熟睡していた時間論という化け物を目覚めさせてしまうことになり、この記事の長さもどんどん増していくことになる。そして、それに反比例して私の睡眠時間と視力は減っていくのだ!
 ってことで、時間論に関しては別の長〜い記事を用意したいと思います。乞うご期待!

  つーことで、結論としては「浮気はダメ」ってことで一件落着。
 だが、いままで読まれていた読者の方で、こう思った人もいることだろう。
 「なんだか契約だのルールだの書いてあって、全然、道徳とか倫理っぽくない」
 その通り。いままでは「浮気肯定派」を封じ込めるために書かれたものであって、純粋に道徳を論じたものではなかった。いわば「対機説法」「応病与薬」「人を見て法を説く」という釈迦の戦法を採ったというわけだ。
 では、いよいよ道徳を語ろう。…ここからが本題である(笑)。
 
 まず「道徳」と言ったときに連想されるものは以下の2つである。

  1. 文化、宗教、習俗習慣を背景にした行動規範
  2. 良心、道徳感情
 以下では前者を「道徳」または「倫理」と呼び、後者を「道徳感情」もしくは「良心」と明確に区別することにする。 
 なお、本稿では区別していないが「道徳」と「倫理」という用語の差については、こちらのPDF文書を参照していただきたい。

 さきほど捨てネコの例を出したが、そこから以下のような疑問もわいてくる。
 論理的な良さと、道徳的な良さの対立。
 たとえば「良かれと思ってやったことが実は逆効果だった」ということは意外と多いだろう。
 雨の日にネコが濡れてて寒そうだったので、暖めてあげようと電子レンジに入れてチンしたら死んでしまったというのは、犬神サーカス団!の歌詞にもなっているくらい有名な都市伝説だ。
 ここでは目的を達成するために選んだ方法が間違っているわけで、その動機の部分は純粋に道徳的なのである。道徳的には善い行為なのだ。だが、間違っている行為なのだ。
 残念ながら電子レンジの説明書だけではなく、道徳にも「電子レンジでネコを乾かすことは悪いことだ」と書かれていなかったということになる。
 しかしだ、法や規則のように「あれはダメ」「これもダメ」と次から次へと規制条項を明文化して追加していくような方法では、いくらでも道徳の抜け穴が存在してしまうことになる。すなわち道徳ではそのような明文化の方法は採っていないのだ。
 いわば最低限の基準があり、それ以降の判断は各個人の良心に任されている。それが各個人の中で改めて規律になり、行動を制限するのだ。
 
 つまり、根源的な道徳があり、道徳感情がそれを解釈して、改めて具体的な道徳を形成するのである。
 
 たとえば「人を殺してはいけない」という具体的な道徳がある。
 これなどは電子レンジの例のように、いくらでも従いながら反することが可能である。
 ウィトゲンシュタインの規則の議論を応用するわけだが、たとえば少年Aが「人を殺しちゃいけない」と教えられた翌日に隣の家の子供を刺し殺したとしよう。その場合の言い訳として彼の口から出てきたのは「人っていうのは20歳以上の男女のことだと思ってました」というセリフである。あるいは「自分のクラスメイト」だとか「自分自身だけ」とか、いくらでも「人」という言葉の解釈は曲げられる。もちろん、それは常識的な定義ではないが、このように「規則にどのように従うか」というのは完全には指導できないのとされているのである。
 あるいは、もっと簡単に「殺すつもりはなかった」と言うこともできるであろう。
 だが、どう考えたって常識的には「人を殺すのは良くないこと」だと思われているだろう。ここまで抜け穴がありながら、それでもそれが道徳だと考えられているからには、それを支える根源的な道徳が存在すると考えた方がより自然であろう。
 ゆえに具体的な道徳事項は、根源的だとは考えにくいのである。
 
 何故、人を殺してはいけないのか。
 道徳感情がそう言うからである。
 
 電子レンジの例では、主人公は「ネコがかわいそうだから」と良心で判断した。しかし、その結果として「ネコを殺すことはかわいそうなことだ。だから善くない」と道徳に反することになってしまったわけだ。
 …どちらがより根源的だろうか? 説明するまでもないだろう。

 ちなみに本筋を少し離れるが、電子レンジの例では、いかに良心から行われたとしても結果が善くなかった。では、主人公は道徳的に正しいのかどうか、という問題が出てくる。
 この問題については2重の基準が必要になる。
 主人公にとってみれば、あくまで無知なだけであって、主人公の行動を非難すべき要因は、なにひとつ存在しない。だって死ぬとは思ってなかったんだもん。ゆえに道徳的には正しいのである。
 だが、周囲の人々、あるいは主人公以外の全人類にとってみれば、存在するのはネコが死んだという事実だけであり、それゆえ道徳に反しているとされるのである。他人にとっては、動機など見ることもできないのだから、結果だけがすべてなのだ。
 だからこそ周囲の人は、こういって主人公を慰めるだろう。
「あんたは悪くない。ただ間違っていた」 あるいは「バカじゃないの?」という一言で。
 
 なお、結果しか見えない他人よりも、動機もわかる自分の方が道徳的に根源的だ、などとは一言も言っていないことに注意! 道徳の根源性に関しては自他の区別はまったく無関係であって、あくまでも事態や状況によって異なってくる。今回の例では、たまたまそうなっただけの話にすぎない。

 さて、動機と結果に関する倫理判断の問題は、これくらいにして話を戻そう。
 では、そういった道徳感情の基準となる根源的な道徳とはなにか?
 あらゆる道徳の源泉となった根源的な道徳律とはなにか?
  
 すなわち、他者へ対する想像力である。
 最近では私は「共感力」と呼んでいるが、要するに他者のことでも自分のことのように想像することのできる能力だ。
 もし、この「共感力」こそが善悪判断の根源になるかと聞かれれば、私は胸を張って「違う」と答えるだろう。
 
 …いや、ちょっと待って(;´Д`)ひじょーにビミョーなわけよ、ここは。
 ぶっちゃけ、いちばん難しい箇所だ。この問題に関しては理解できなくても良い。
 
 つまりは他人に共感できたからといって、それが善悪の基準となるわけではないのだ。
 改めて善悪を決定する基準が別に必要になってくるわけだ。
 たとえば自分を包丁で刺すと痛いわけで、「共感力」によって他人も同じように刺すと痛いんだろうなぁと想像したとしよう。だが、だからといって「では包丁で他人を刺すのは悪いこと」とはならない。
 なぜなら、その場合、せいぜい「他人も痛い」ことしか想像できないわけで、「痛いことは悪い」という判断が生まれるわけではないからだ。
 
 なにが「痛いことは悪い」と決めているのだろうか? 
 ほとんどの人が口を揃えて言うだろう。「痛いことは厭だから悪いに決まっているじゃないか」と。
 だが、自分自身の感覚を基準にするならば、それこそ個人の価値観の違いという問題があるだろう。世の中には包丁で刺されるのを至上の喜びとする人がいるかもしれないのだ。誰しもが平均的な「普通」の感覚を持っているわけではない。
 だからこそ「自分の厭なことは、他人も厭がるはずだから悪いこと」という自己を基準とした論理はなりたたないことになる。

 むしろ他人の存在の方が根源的なのだ。
 「他人の厭がることはしたくない」という感情こそが道徳の起源である。
 だから「他人の厭なことは悪いことである」という善悪基準が生まれた。
 あくまでも、まず他人の存在ありき、なのである。
 そして、それを理解するためには自分自身の「共感力」が必要になる。
 他人を愛おしく思い、憐れみ、なにかをしてあげたくなる。
 その気持ち自体には善だの悪だのの判断は一切ありえない。
 純粋になにかをしてあげたいだけだ。
 そうすると相手が喜ぶ。だから「他人の喜ぶことは善いことだ」と判断する。
 そこでは最初から他人の存在こそが気遣い、思案されているのである。
 
 ここで、どのように「善い/悪い」という価値判断が生まれるかは私にはわからない。
 そして、何故「他人の喜ぶこと」をしたくなるのかも私には理解できない。
 いわく人間は社会的存在だからだ、とか、あるいは他人を喜ばせると自分に利益が生まれることから、進化するうちに自然とそういう感情がわくようになった、とか説明をしようとする議論は無数にある。だが、現状では「よくわからない」としか言いようがないだろう。
 
 個人的には、言語の共有性、社会性が手がかりとなって、人間の感情面も含めた社会性というものが解き明かされるような気がしている。

 言葉は社会的なものだ。
 この言葉を駆使して、世界で生きているということは、社会で他人とともに生きることである。
 そもそも、自分の存在などを見つめるよりも、他人を観察することの方が圧倒的に容易なことである。
 そして「他人を気遣う」という行為が、最高の状態に昇華されたものがなのであろう。あくまでも恋愛ではなくて、である。
 …恋愛ってのは、また別の現象との複雑怪奇なコラボレーションだから、ここではあえて触れないことにする(;´Д`)いずれ、また…。
 とにかく、肉体関係とか損得勘定とか抜きにして、相手のことを純粋に好きだから何かしてやりたいって想う気持ち、それこそが他者への愛なのだ。
 別に難しいことでもない。
 宗教的なことでもない。
 他人など、生きていれば自然と愛せるものなのだ。
 ただ、肩の力を抜き、頭をからっぽにして生きてみればいいだけだ。
 
 性善説だとか性悪説だとかは、どうだっていい。
 そこで言われている善悪などは、絶対的な基準が想定されているわけで、いかがわしい宗教臭すら立ちこめている眉唾物の言説と似たり寄ったりの議論にすぎない。人は悪にでもなれば、善にだってなる。それは状況が左右するだけだ。
 
 とにかく善悪を考えずに生きていけばいい。
 人間は自然に他人を求めるものなのだから。

 では、最後に練習問題を用意した。
 いわば、豊富な実例で理解を深めていただこうという、筆者からの粋な計らいなわけだ。
 自分が道徳的かどうか、そして、道徳とはなにかという試金石として、是非とも活用していただきたい。

【練習問題1】
 大学生A子さんの場合。
 ラブラブだった恋人B君が、実はワイドショーでも話題になっている、小学生ばかりを殺す連続殺人犯だと気づいてしまいました。果たしてA子さんは彼氏を警察に売り渡すべきでしょうか?
【答え】Yes. 
 社会に生きている以上は法律は守らねばならない。
 だが、嫌いになる必要はない。罪は負っていても愛することはできる。
 逆にいえば殺人犯でも変質者でも別れる必要はない。
 契約と道徳を比較した場合では、契約が優先されるべき場合が多い。
【練習問題2】
 ドイツ人Cさんの場合。
 Cさんの家では屋根裏にユダヤ人の家族をかくまって、面倒を見ていました。
 そこへナチスの保安警察に就職した友人D君が家に遊びに来ました。
 どうやら上司の命令でユダヤ人を探しているようです。
 その場合、Cさんは正直にユダヤ人の居場所を教えるべきですか?
【答え】No.
 正直に生きることと、誰かの命を守ることと、どちらが道徳的であるかという問題。
 ナチスとユダヤ人のどちらが正しいと思うか?
 自分の心に耳打ちする内なる道徳律に従えば良い。
 状況が逆転し、終戦を迎えて、ユダヤ人や連合軍から逃げ延びるナチスの友人D君が屋根裏に隠れている場合はどうであろう? 正直であるべきか? 彼の命を守るべきか?
 あるいはD君が実はヒットラーだった場合は?
【練習問題3】
 人妻Eちゃん。
 ある夜、道を歩いていると自殺志願者の男性に出会いました。
 彼いわく「セックスできないから死にたい」そうです。
 Eちゃんは彼の命を救うため、セックスしてあげるべきでしょうか?
【答え】No.
 そんなワガママな輩は死なせてしまえ。
 セックスしなくても生きることは可能である。だからワガママでしかない。
 では、誰かとセックスしないと死んでしまう珍しい病気にかかっている人だったら?
【練習問題4】
 駅前でホームレスFさんが物乞いをしています。
 終電に乗ってきたサラリーマンG君がお金をあげないと、他には誰も通りがからず、Fさんは夜の寒さに耐えきれずに確実に死んでしまいます。
 果たしてG君はお金をめぐんであげるべきでしょうか?
【答え】No.
 G君の選択が結果として他人を殺すだけである。
 それまでの死に至る経過などにG君は一切関与していない。
 ナチスの例のように、理由もなくFさんは死に至るわけではない。
 積極的な善意の場合、しても、しなくても良い。
 では、そのホームレスが昔の恋人だったりした場合は?
【練習問題5】
 旅行先で乗った豪華客船が沈没しました。
 あなたが海で溺れないように泳いでいると、波間に漂う一枚の板切れがありました。
 その板切れに掴まれば死なずにすみそうです。
 しかし、その海域にはあなたの他にも1人の女性が同じように泳いでおり、同じように板切れに向かって泳いできます。
 はたして板切れは譲るべきか? あなたが死ぬべきか?
【答え】No.
 自分に余裕がない状態では他人のことなど顧みることもできない。
 そのような状況では道徳を論じることなど不可能である。
 「他人と共存する世界」というものを生み出しているのは、あくまでも自分の存在であり、自分がいなければ他人も糞もない。
 もちろん譲って死んでいっても良い。
 それだけ余裕がある証にはなるだろう。
 

Comments

ブログをはじめてみました。
日記程度だけどね。
http://blog5.fc2.com/emuda/

最近の海月さんのブログを見ていると悩みが深そうだけど平気ですか?
飲みに誘ってくれれば飛んでいきますよ

Posted by: えむだ [URL] at 2005年02月21日 22:49

 悩みですかぁ?(;´Д`)…あまり心当たりがありませんけど。
 
 つーか、最後まできちんと読んでもらえばわかるが、こういった哲学的な記事こそが書きたいものであり、いっつもオイラが考えていることだったりします。
 
 (;´Д`)キチガイ呼ばわりしないように!(笑)
 
 むしろ悩みというか、フラストレーションがたまっているとすれば、こういう哲学的な会話ができる相手が少ないってことかもしれません。嫁さんは賢者なんで、こういう会話を意図的に避けるんですよ(;´Д`)…賢明な判断ですが。
 
 とりあえず言えること。
 オイラのブログは日記じゃないようだ。
 
 Weblogの活用法については以前にも記事を書いたので丁寧に読んでいただければ、あくまでも便利なツールにすぎないことは理解いただけると思います。
 
 オイラの日記は現在、掲示板に展開していますよん♪

Posted by: 管理人 [URL] at 2005年02月24日 00:19
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