›2004年 11月 29日

[ 範疇 : 倫理の小道 ]

自分探しの旅路

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 数年前に大流行した「自分探し」という言葉。
 そのルーツは、30年ほど前に世界中に感動を呼び起こしたアレックス・ヘイリーによる「ルーツ」という小説になるのだろう。
 …「ルーツ」だけにな(爆笑)。
 
 ところが20代の若者が口にする「自分探し」の場合、趣が異なってくるらしい。
 ぶっちゃけ、自分自身のルーツなど問題ではないのだ。
 どうやら、そこで問題とされているのは、正真正銘、自分らしい「本当の自分」というものらしい。
 
 さて、はたして本当の自分とやらは見つかったのでしょうか?

 まず、ルーツを探求するタイプの「自分探し」について補足しておこう。
 要するに、それはセルフ・アイデンティティの再構成ということになる。
 他者や社会によって承認される、社会的な記号としての自己の存在意義こそがアイデンティティだというわけで、民族性のみならず、役割や帰属意識なども重要な要素になってくるのである。
 
 だが、現代日本社会の若者においては、それがあまりにも希薄じゃないかい?と苦言を呈したのが、かの小此木啓吾先生。
 本来の自己像を理想的なものとして高く設定し、現在の自分を仮の存在として遊び感覚で、気分のおもむくままに生きていくスタイルを、「モラトリアム人間」だの「自己愛人間」だのという造語でバッタバッタと切り捨ててしまったわけだ。
 
 今回のテーマである「自分探し」人間と大きく重なる部分があることに気がつかれるだろう。
 そう、「自分探し」というキーワードは、現代においては「現代的モラトリアム人間」を指し示す勘合符のような言葉になっているのである。
 
 「自分を探す」って言葉自体が、そもそも奇妙だと思わないだろうか。
 近所の竹やぶを探したって、ツチノコや100万円は落ちてるかもしれないが、自分自身が見つかることは絶対にありえないだろう。せいぜいドッペルゲンガーがいいとこである。
 冗談はさておき、自分自身の存在意義だって、そう簡単に見つかるもんじゃない。
 つーか、おまえら本当に探しているのか?と問いつめたくなるときもあるくらいだが(;´Д`)実際には、探せば探すほど見つからなくなると考えて間違いないだろう。
 
 それは何故か。
 胸に手を当てて聞いてもらいたい。
 「自分自身が見つからない」という人間の多くは以下のような行動傾向を持っていると思う。

  1. 他律的
  2. 夢見がち
  3. 理想が高い
  4. 一般人をバカにする
  5. 排他的
  6. 同病相哀れむ
 すなわち、浜崎あゆみや宇多田ヒカルを聴いて喜んでいる「一般人」を無意識のうちに小馬鹿にし、理解しあえる選民だと思った似た者同士でキズを舐め合い本当の自分があるべき恵まれた環境誰かが提供してくれるのを、炬燵でミカンを食べながら待っているような人である。
 …うむ、我ながら極端な例だな(;´Д`)まあ、いいか。
 
 で、そういう人が何故「自分自身」を見つけることができないかというと、根本的な結論としては「自分自身を見ていないから」なのである。
 彼らは、まさか自分自身がそこらへんに転がっている「一般大衆」と同じような社会的存在だとは夢にも思っていないのである。その上、理想が高いから、現状の平凡な自分自身すらも「将来的には違うからね」と結論を先送りして、眼を背け、安心していたりする。
 そして、そのくせに他人の評価を常に求めていることからわかるように、他人を軸にグルグルと回り続けるだけで、自分の行動もすべて他人のせいだったり、常に自分を他人と比較していたり、他人の言葉に影響されてしまったり、自分自身が主体的になって行動しようとしないのだ。
 挙げ句の果てには「私は私」という呪文で、自己弁護を図って他人を切り捨てる始末!
 そんなんで自分自身が見つかるはずがないだろう!
 
 そもそも存在意義など誰にも存在しない!
 存在自体には意味などないのだ。
 ウンコや蛆虫、ネコやトイレットペーパーと同じように、ただ存在しちゃっているだけで、それ以上でも以下でもない。
 まずは自分自身が無価値無意味な存在だと徹底的に痛感するべきである。
 
 全能感という魔境に迷い込むな。
 
 ナポレオンでもアレキサンダー大王でも、キング牧師でも、存在意義という意味では大差ない。
 そこらへんを歩いている初老のサラリーマンや、深夜の公園でスケボーにいそしむ若者たちと、まさに今という瞬間においては、歴史上の英雄たちもまったく同じ人間であるのだ。
 そもそも、無数の基準がある他人たちと比較して、自己像が掴めると思うのが間違っている。

 そして、未来でも過去でもない、まさに今という、この孤独な瞬間に、自分自身の足で立ってみるのだ。その孤独な地平において、他人の評価なども一切、介入できない、生身の自分自身を見つめるのである。
 なにが見えるだろう。
 そう。そこには自分自身すらもいないのだ。
 
 自分自身の足で立ち上がり、本当の意味で他人が気にならなくなった時点から、本当の自分探しは始まる。他人のものではなく自分自身のものとしての自分を生きることができる。
 
 そして、その地点から改めて他人を見渡したときに、すべての存在が愛おしくみえるのである。
 それがLove & Peaceの精神であり、禅の悟りの境地であり、あらゆる存在と自分との根底に横たわるコミュニケーションの根本的なものであろう。
 
 とりあえず、自分自身をリセットしてみよう。
 そこから改めて他人や社会との関係性を築き直すのだ。
 それこそが本当に他者から切り離された点としての個人の始まりになる。
 
 誰もアンタを気にしちゃいないんだよ?
 アンタは邪魔者で、ゴミみたいな存在なんだ。
 でも、それはアンタだけじゃない。
 釈迦も孔子もキリストすらも、同じように邪魔でゴミみたいな存在でしかなかったはずだ。
 ただ、彼らは他人を自分の道具にしなかっただけだ。
 そして自分自身の信念に従って、自己責任で、自分の足で歩き続けただけである。

 それくらいのことが、何故に貴方にできないのだろう。
 
 とにかく自分を探したくなる衝動に駆られたら、鏡を見て欲しい。
 そこには、既に立派な自分自身が立っているのだから。

Comments

 あ、反感もたれる前に書いておくけど、特に誰かのことを想定して書いたってわけではないので念のため(;´Д`)よく誤解されるんでな。
 まあ、一般的な話としてです。
 もしも、当てはまるなぁと思ったら、怒る前に、それが良いことなのかを考えてもらえれば幸いってことで。
 
 ちなみに深夜にスケボーってのはオイラたちのことです。わらい。

Posted by: 管理人 [URL] at 2004年11月28日 16:58

嫌いな言葉:
自分探し (そんなもん探すな!)

って後輩が言ってた。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/8604/top.html

Posted by: びこ at 2004年11月28日 19:49

 妹さんのお友達ですか?
 個がしっかりしてそうな女性ですね。
 素敵♪
 
 ちなみに、今回のカテゴリーは「倫理」ですので、存在論みたいに小難しい話は意図的に避けてますので、念のため。

Posted by: 管理人 [URL] at 2004年11月29日 14:07
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