
「チルソクの夏」という映画のポスターが先日、店に届いた。
監督は佐々部清といい、最近だと「半落ち」なんかを監督した人らしい。ストーリーも、なんとなく感動を予感させる青春ラブストーリーといった作品で、個人的には好感が持てる佳作といった印象を抱いている。
そういえば、ラブストーリーは反吐が出るくらい嫌いなんだけど、青春ラブストーリーは好きなんだよね、オイラってば(;´Д`)オススメはM・S・マスターソン主演「恋しくて」だったりします。
さて、「チルソクの夏」。
問題はそのポスターなのだ。

さて、ここで鋭敏な人は、難しい問題に直面してしまったことに気がつくであろう。
何故、私は同じ人物なのに写真によって評価が変わるのであろう?
どうして素直に「上野樹里ファン」と主張してはいけないのであろうか。
さらに上記に関連して、以前から「人間の見た目は顔の造作ではなく表情で決まる」と主張している私なりの論拠を聞いていただこうという趣向だ。
まず、同じ人物なのに写真によって印象が変わるという現象を、とりあえず「上野樹里効果」と呼ぶことにしよう。巷でたまに聞く「写真写りの善し悪し」というのも、この上野樹里効果の一種である。
だが、日常生活においては、だいたい可愛いと評価される人は、よほど奇抜な行動をしないかぎりは、評価が変わることなくチヤホヤされ続ける。たとえば上野樹里さんが同じ職場にいたとしたら、どんなに髪を下ろしていようが、どんなに眉毛を細くしていようが、男どもに大切に扱われるだろうことは想像に難くない。
なぜ上野樹里効果は写真に顕著なのであろうか?
それは垂れ流し状態にある膨大な現象を感受した時に、それら現象を一定のエピソードごとに整理・分割する能力を人間が持つことに原因している、と私は考えている。
以前、意志論を論じた時に用いた用語を使えば「フィギュール(行動の型)単位」で現象は分割されるのである。
この尺度は、あらゆる現象が同一の時間枠で区切られるようなものではなく、非常に曖昧で、たとえば上野樹里さんの見た目に関する評価は長期的な展望のもとで調整されるのに対して、上野樹里さんが行った行動に対しては、それぞれが細かく「背中を掻いた」だの「怪訝な表情をした」だのと分類されることになる。逆にいえば、「背中を掻いた時には上野さんの見た目は美しく…」といったような、行動ごとに総体的な価値が評価されるわけではないのである。念のため。
だが、写真の場合は、そこで切り取られた時空間がすべてである。
そのため、その写真での表情だけで、その人物の価値が定められてしまう傾向にある。
その結果が上野樹里効果である。
だが、考えてもらえばわかるだろう。その複数の写真に共通して写っている人物が、いくら似ていたとしても、それが同じ人物だと保証するものはなにもない。他人に「同じ人物なんだよ」と教えられ、それが不動の事実であると盲目的に信じ込むしかないのである。ひょっとしたら、そこに写っているのは上野樹里さんの同姓同名の従姉妹かもしれないのに!
むしろ写真においては、上野樹里効果が引き起こされることのほうが当然の結果なのである。
また、なぜ人間は造作よりも表情に重きを置くか、といえば、表情がコミュニケーション手段だからだ。造作はなにも語ってくれない。だが表情は、美しく甘い言葉のように相手を酔わせることができる。そしてコミュニケーション手段であるからこそ、表情を見れば、その人物の所属する人間関係に置いて、どのような役割を担っているのかも理解することができるのである。
私は常々「顔を見れば相手の性格がだいたい判る」と豪語しているが、それは上のような理由からに他ならない。笑顔一つでも、友人関係や親子関係において彼がどのような立場に置かれているかによって笑顔の種類も異なってくるのである。
私が「チルソクの夏」ポスターでの上野樹里さんに惹かれたのは、その表情が、私の好むような人間関係を体現できることを暗示しているからに他ならないのだろう。
それがどのような関係性かは、さらなる分析が必要になるが、とりあえず正確に把握できるものではないと思うので、これ以上言葉を費やすことは辞めておく。ただ、ひとつだけ言えるのが、卑屈になるわけでもなく高飛車なわけでもない、いままで良い人間関係を築いてきた人の笑顔だということだ。
忘れないように注意しておくが、他の上野樹里さんの笑顔が同様に私を惹き付けるとは、一言も言ってはいない。まさに上野樹里効果なのだ!
さらに言えば、人間の自我意識は、安定するべく一定の傾向に統一が図られているものの、完全ではない。どんな人間であっても常に価値観は揺らぎ続け、細かい修正を施しながら、なるべく矛盾がないように自我を存続させているのである。
だが、明らかに対立するような価値観を人間は抱くことが可能である。
それこそアンビバレントな感情を抱くことも、あるいは煙草を吸いながら「俺は煙草が嫌いなんだ」と本気で思ったりすることも可能なのである。…もちろん同時間に複数の価値観を抱くことは不可能なんだけど。
そもそも肉体が連続する同一のものだからといって、自我意識にまで同一性を強要するのが間違いなのだ。それなのに何故か人間は自分を無矛盾の統一体として扱おうと躍起になっている。
なぜ矛盾がいけないのだろうか?
人間は、そもそも矛盾すらも包括する存在である。
良く言われるような「異性のタイプ」というものも、その時それぞれの価値観によって大きく揺らぎ続けるものである。病弱な男性に惹かれるときもあれば、筋骨隆々とした汗臭い男に惹かれることもあるだろう。
そうしたときに人間は必死に、その共通項を探し出し、なぜ自分が両極端にも思えるようなタイプに惹かれるのかを理由づけようとする。たとえば「優しい人だから」などと言って、両者がそういうタイプだったと結論づけてみたりする。
私からすれば無駄な足掻き以外のなにものでもない。
いいじゃないか、理由はどうあれ、その時に好きだと思ったのならば、好きだということだけは間違いない事実じゃないか。
…ということで、写真によって印象が変わるだけでなく、人間は、自分の気分によっても相手に対する印象が変わってきます。結局のところ、誰でもいいわけだ。ぶっちゃけ。
生活環境や経験などにより気になる異性のタイプなんかは変わってくるとは思うが、あらゆる人間に共通して関わってくる要素はなにかというと、実は容姿でもなく身長でもなく、タイミングなのかもしれません。
どうでもいいが、ポスターを見ていて思ったこと。
舞台である1977年に、あんなピースサインはしないだろう(;´Д`)
ただ単に制服に萌えたんじゃないの?(笑)
そんな俺はポスターの「『ブチ』会いたい」という方言に
たまらなく魅かれます。(笑)
> 理由はどうあれ、その時に好きだと思ったのならば、
> 好きだということだけは間違いない事実じゃないか。
全く同意。「好き」には理由が無いと思いやす。
理由がある「好き」はなんか安っぽく感じちゃうのは俺だけ?
いいじゃない、好きなものは好きなんだから。
制服かぁ…。
今後「踊る黒猫亭」においては女性は制服の着用を義務づける、とかってすると、ちょっと嬉しいかもしれないけど(笑)。
確かに高校生の夏服なんかは爽やかで、ちょっと甘酸っぱい印象があって悪くはないんだけどね。
理由があると、その理由が否定された時に好きである必要性がなくなってしまうわけですから、脆いのは事実かもしれませんね。若い人の恋愛なんかも、理由から先に始まっているような気がします。それが「恋に恋する」とか言われてしまう原因なのかも(笑)。
カントという哲学者が言っていたことですが、道徳規律には「定言命法」と「仮言命法」の2種類があり、「仮言命法」とは「●●なので、▲▲しなさい」という命令のことで、その理由に納得できない場合は別に従う必要もない命令だということになってしまいます。つまり、主眼目は理由である●●に置かれることになります。でも、それって結局は自己中心的な行為でしかないんですよね。
で、カントは道徳は「定言命法」でしか表現されないものだと言うわけです。「定言命法」ってのは問答無用に「▲▲すべし!」と命じるもので、カントはそれこそが動機を一切考慮しない真の道徳的行為を生むものだと主張するわけですね。
同様にして他の行為全般においても、理由があっての行為というものは、少なくとも理由に主眼目が置かれる…という点は否定できないんじゃないかと思います。つまり恋愛においては相手ではなく理由しか見ていないと誤解されかねないというわけで。
でも女の子に「なんで私のことが好きなの?」と聞かれた時に「たまたまタイミングが良かっただけだよ」なんて答えた日には…青痣だらけになりますぜ、マジで(笑)。
長文、ゴメリンコ(;´ー`)y-~~
行為全般には、理由はあるとは思うんですけどね。ただ、それを突き詰めていくと、すごく味気の無いものになると思うんですよ。
例えば、「虹」って言ってしまえば、単なる水蒸気と太陽光線による反応の結果ですよね。条件が揃えば、人工的に発生させる事は可能。でも、その科学的反応の結果でしかないアーチ状の七色の光を見て、人は綺麗だと感じる。この綺麗と思う感情もたどっていけば、何らかの理由はつけられると思うんですよ。でも、そこまで考えると、感動なんて薄れてしまいますし、考えている間に虹は消えてしまう。(笑)結局のところ、無意識のうちに綺麗だという「感情のフィルター」をかけてしまうと思うんですよね。
俺の場合は「虹の向こうにCozyが見える」という「感情のフィルター」がかかってるんですがね。←結局、これが言いたかった(笑)
今回の件に話を戻すと、「好き」に理由をつけると「感情のフィルター」を取り除くことになってしまうと思うんですよね。
お互いが、「感情のフィルター」を持っているから恋愛は成立している訳で、つまりは「恋に恋する」って事だと思うんですがね。
> 今後、「踊る黒猫亭」においては女性は制服の着用を義務づける…とかってすると、ちょっと嬉しいかもしれないけど(笑)。
そんな提案こそ、青痣だらけになるんじゃないんですか?(笑)
「行為全般に理由があるかどうか」については、それこそ意志論の記事を参照して下さい。
ですが自然現象などについては、あくまでも因果系列における「条件」とされるものがあるだけで、選択的な動機づけである「理由」は存在しないというのが、私の用語法の整理であり、また形而上学的な信念でもあります。
たとえば虹の発生条件はさておき、とりあえず虹を見て綺麗だと思うのは、その人間の内部では原因を特定できるものではありません。どうしても外部的な視点から「何故、彼が虹を綺麗だと思うのか」と分析するしか「理由」は問うことができないものです。ですが、そんな他者と共有するような言語化された感動なんか糞喰らえというのが私の思想信条だったりします。つーか、いかに、なんとかという脳内物質が大脳辺縁系にうんたらかんたら…と説明されようが、それは俺が今まさに感動していることとは無縁に思えてならないのだ。そんな分析は俺が死んだ後に勝手に解剖して行って欲しいくらいだ!
俺の、まさに今、感じているものは、誰とも共有できないかもしれない。それでもいいのだ。
もちろん虹を見て、たとえば綺麗だと思ったり、悪魔の出現する兆候だと思ったり、コージー・パウエルの魂だと思ったり、現象に対する解釈も人それぞれでしょう。その時に抱く印象というものも、さらに人それぞれでしょう。
少なくとも言えるのは、虹を見て感動している時に、オイラは「色彩が微妙なグラデーションをつくり、空間のなかで不可思議に調和している」などと考えて感動していないということ。ただ、ひたすらに感動だけしているということ。それで充分なような気がします。
もちろん、それは思考停止なのかもしれません。
ですが、自分の範疇を超え出ない思考停止は、それこそ正当な、論理的なものではないでしょうか。つまりは、Jackey氏の言葉を借りれば「フィルタ−」です。
ウィトゲンシュタイン曰く「語りえないものについては沈黙しなければならない」
ま、「恋に恋する」という言葉への解釈は、互いに違うようですが。とりあえず、そこらへんを明確にするべく、ぜひJackey氏も制服を着て「踊る黒猫亭」に遊びに来て下さいませ。語りましょう。
オイラはナース服でも着て、出迎えるとでもしましょうか(笑)。
あたしは右から2〜3番目のあいだらへん。
(制服関係なし)
>むじくん
君とは本当に異性の趣味があわないようだ(笑)。
いちばん可愛いと思うのは左端だけど、次点は右端なんだよね、オイラ。
ま、喧嘩にならなくて良いから、むしろ良い結果かもしれないけどさ。
まず、表情が好む人間関係を体言云々ってとこだけど、
まず「美人であること」ありきでしょ?
そして、まず目につくのは真ん中(左から2番目とも言う)だろうが!
左に目が行ったのは首筋にやられたんじゃないの?
君はフェチだからなぁ
(;´Д`)いやはや久しぶりですが反論はさせて下さい。
もちろん真ん中の子でも私好みの表情ができる人ならば素直に「可愛いなぁ」と思うと思うんですが、いかに美人であってもダメなんです。
逆にいえば顔の造形だけを素直に我々は評価しているのか、という問題。
たとえば上野樹里さんを見たときに、その造形だけをどのように評価することができるのか、ということです。もしも日常の平均的な表情をしているという上野樹里さんを我々が想像しているとして、本当にその評価が表情の傾向とかを抜きにして純粋に顔の造形だけを論じているか、というと難しいと思うわけです。
たとえば我々が知る小倉優子は、恐らくは友人とかの前にいるときの小倉優子とは表情から話し方まで違うと思います。
だから、好みのタイプと言ったときに絶対的基準のように顔の造形の善し悪しなんてのは、結局は趣味の差でしかなく正確に論じられるものではないのではないでしょうか。
もちろん真ん中の人は綺麗だと思いますけど、オイラは左端の上野樹里さんが魅力的です。首筋もいいですが、やっぱり口元が最強♪
全体的に見て、上野樹里さんって普段はキリッと凛々しいんだけど、油断すると性格が出てしまうのか平和なオトボケ表情になるのかもなって、ちょっと思った。
ま、可愛いってことで。