
寺山修司。
![]()
1983(昭和58年)47歳で完全なる死体となるまで、彼が生み続けてきた言葉は、いまだに若者の心に巣食い、蝕み続けている。
アバンギャルド、ノスタルジック、サイケデリック、エロティック、アングラ、魔術的、猟奇的、変態…。
そんな形容詞で賞賛される彼という存在が、一般大衆にも歓迎され、CMに出演するくらいポピュラ−でありえたというあの時代は、なんと豊かな時代だったのだろう。寺山の存在を振り返るに、私などは現代との格差に絶望すら覚えてしまう。あの画一的で紋切り型な「有名人」という存在たちはいったいなんだろう。怪人だったタモリも、今ではただのオッサンになりさがってしまった。
神話のない時代。
そんな寺山が主宰していた演劇実験室◎天井桟敷において上演されたのが「毛皮のマリー」という戯曲だ。まだ丸山明宏だった頃の美輪明宏が主演した伝説の1967年初演。それから数々の劇団によって舞台に掛けられ、そしていよいよ天井桟敷で音楽・演出を担当していたJ・A・シーザーが主宰する演劇実験室◎万有引力、いわば寺山の遺伝子を受け継ぎし者たち、の手によって2004年7月、装いも新たに復活することとなった。
演劇実験室◎万有引力版「毛皮のマリー」。
降臨の地は、なんと亀戸(笑)。
![]()
ちなみに寺山の遺伝子を引継ぐ者は万有引力以外にも数多く存在する。
それこそ天井桟敷に在籍していた者から仕事上の関係者、友人まで、寺山に関わった者たちは、いまだに寺山からの影響を受け続け、振り払うこともせず、それぞれの中にいる寺山を表現し続けている。
たとえば我が同居人、ザシキワラシ学芸員が某映像研究所で学生をしていた頃、8mm作品にBGMをつけることになり私が協力することになった。そこで提案したのが寺山映画「田園に死す」の楽曲とノイズ、子守唄などをミックスしたBGMだったのだが、師匠の「あそこで寺山はマズいよ」の一言で却下されたことがある。実際に寺山と深く関わっていた某氏が講師として教鞭を採っていたこともあり、シャレでは済まないというのが師匠の判断だったらしい。
しかし、実際に生身の寺山に触れることのなかった若い世代の人間であっても、寺山の遺した言葉たちによって、各自の寺山修司に関わっているのではないだろうか。それぞれの人生の中で、それぞれがそれぞれの方法で寺山修司と出会い、時を過ごしてきた。
つまりは、我々も、それぞれが寺山の後継者であり、寺山の遺伝子を帯びているのだ。
万有引力による公演は、まさに、そんな寺山の遺伝子たちが集う場所になっていた。
開場すると、既に舞台の上では役者がパントマイムよろしく奇妙にポーズを決め、動き続けては静止する、その一連の動作をただただ繰り返している。客席は開演を心待ちにしてか、おしゃべりが止む気配もない。それすらも既に「毛皮のマリー」という演劇のうちなのかもしれない。そしてJ・A・シーザーによる壮大な爆発音にも似た音楽が流れ、破裂したように役者たちが暴れ始めるのだ。毛皮のマリーの登場!
もちろん初演時とは異なる演出がされているだろうし、美輪明宏氏が演出した時とも当然、違う演劇になっていることだろう。
表面は大抵、みんなウソでできているのよ…。恐ろしいのは、あまりに露骨に男性だった「毛皮のマリー」が、物語が進むにつれ、どんどんと悲しく、そして美しく見えてくることである。終幕直前にいたっては、彼が女性であることに寸分の疑いも抱かず、名も無き水夫との痴話話に耳を傾けるようになっていたほどだ。これは役者の演技力によるものか、あるいは戯曲自身の持つ力なのだろうか。
人生っていうのはみんなそう。
表面はウソ、だけど、中身はホント…と思わせるには、表面がウソだと言わなけりゃならない。
霊が遠洋航海するためには、からだの方はいつも空騷ぎ! いつでも二つの追っかけっこで、ジャンケンで敗けた方がウソになってホントを追っかける。
歴史はみんなウソ、去っていくものはみんなウソ、あした来る鬼だけがホント!
詩人はことばで人を酔わせる酒みたいなもんです。それはマリーばかりではない。男による逆宝塚、江戸時代の野郎歌舞伎の復権を目指したということで、美少女もスネ毛の生えた筋骨隆々のオッサンが痴態たっぷりに演じ、マリーに忠実に従う下男も女装しては自分の容姿に吐息をつく。そのいずれのキャラクターたちが魅力に満ちあふれ、知らず知らずの間に「毛皮のマリー」の世界観に、これっぽっちも疑問も抱かず参加することになる。
ときにはことばで人を傷つけたりすることもできる。
ようやくみがいたことばで、
相手の心臓をぐさり、とやる。
ああ、うまいこと自分自身に化けたもんだな、これはあたしにそっくりだ。その世界の根幹には、寺山がずっと描き続けてきた「母と子」の関係がしっかりと存在している。血のつながりもなく、性別も男同士という、あまりに非常識な設定なれど、そこに描かれているのは、やはり母と子の関係なのは疑うべくもない。
しかも、誰にもみせたことのないほんもののあたしにそっくり
男のくせに、どうして警察官を演じたり、思想家を演じたり、大学教授を演じたり、人殺しを演じるんだ。そんな演劇が、ステージ上だけではなく客席の間の通路すらも舞台にして、役者が縦横無尽に駆けずり回り、同時多発的にさまざまな出来事がいろいろな場所で起こり始めるのだ。だから座った座席の位置によって観客が把握するストーリーも印象も異なってくる。後の「百年の孤独」という作品に通じる実験性であろう。もちろんキョロキョロして首も疲れるし、役者と目が合ってしまうと多少気まずい気分になるのだが、物語が進行するにつれて、中心舞台はステージ上へと集約されていく。そして最後の救いのないエンディングへとなだれ込む。
男のままでいいじゃないか。女を演じるのだけが変だというのは、おかしいじゃありませんか。
化けて化けて化けぬいてお墓の中でひとり拍手喝采を聞くんだ!
海月さん、死ぬほどお久しぶり。NY食堂です。
海月さんが誰かも知らずに、むじなもさんのブログから飛んできたら「毛皮のマリー」でぴんときました。
ブログやら日記やらななめ読みしたけど、すごくおもろいですね。これからぼちぼち時間かけて、読破しないとね。
しかも、NY食堂もこっそり紹介されていて、驚きました。いやはや情報通(?)、恐れ入りました。ありがとう。
Posted by: NY食堂 [URL] at 2004年08月07日 03:26 NY食堂さん! ご訪問ありがとうございます。
ご想像の通り、NY食堂さんの公演時に、お祝いとして寺山修司の本を贈呈させていただいた者です。覚えていて下さったようで、感激に打ち震えております(←大袈裟ではなく)。
ぶっちゃけNY食堂さんみたいに軽妙洒脱な文章も書けないし、デザインだって野暮ったくて、Blogを見せていただくたびに「海月舎もここまでお洒落ならば…」と暗くなる気分なんですが、どうやら持って生まれたものらしいので、めげずに頑張っていこうかと思う今日この頃です。吸収できるところは是非とも吸収していこうと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
よろしければ、また遊びに来て下さい。ありがとうございました。