
私の彼女はホラー映画好き。
そんな彼女は『SCARED』というホラー専門雑誌を買っていた。
たまたま暇になり私も手に取ってみた。
2000年秋号。「カノン」特集。
この「カノン」は決してホラー映画ではないものの「残虐」「暴力的」「醜悪」というキーワードが似合ってしまうため、紹介されているようだ。

この「カノン」と前作「カルネ」は、いわば大前提として馬肉を売っていた主人公が物言わぬ自分の娘に対して持つ近親相姦幻想が横たわっている。
私が違和感を感じたのも、その「近親相姦」について触れた『SCARED』の記事だった。
以下に引用してみよう。
■近親相姦(=Incest taboo)は、おそらく人間にとって最も根源的な禁忌である。殺人や窃盗は、法によって禁止されていなければ幾らでも蔓延するであろうが、こと近親相姦に限っては法の抑止力とは別物のブレーキがかかっているのではないか。それゆえ、この禁忌を侵した者は、法の裁き以上の罪悪感を背負って生きることになる。英語のIncestが、ラテン語のIncestum(低劣な、下劣な)の派生語であり、しばしばこの語が「動物的」という意で受け取られることからも、近親相姦のタブーが「人間の最低限の条件」である事が分ろう。ゆえに、この背徳的な行為は文学的想像力を大いに刺激してきた。あらゆる価値体系への異議申し立てあるいは価値の破壊を目論んだダダイズムが、その代表作として、リブモン=デセーニュ作『中国の皇帝』という父娘相姦を扱った残酷史劇を頂いていることは偶然ではないだろう。
もちろん、今まで、さまざまな学説において近親相姦の回避は根源的だと説明されてきた。
精神分析では──つーか、フロイトの『トーテムとタブー』だけど──オイディプス・コンプレックスを抑圧することで社会を構成するためだと説明されている。
一方、文化人類学では、クロード・レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』に拠って、近親の女性を自分たちで所有するのではなく、外部の家族集団へ差し出すことでコミュニケーションが生まれ、社会が構成されると説明される。
別名、「社会化」説ってのも、この亜流の説明だといえるであろう。
その他の説明としては、医学的な遺伝異常が生じるとか、血友病が近親婚を繰り返したヨーロッパの王家で蔓延したという説明があるが、これらは現在では否定されているという。まあ、遺伝的な変化・発展が妨げられるため、自然と人間が近親以外を選択するようになったとかいう神秘主義的なダーウィニズムとかは生き残っているのかもしれんが。
まず、ここで整理しなければならないのが、近親婚と近親相姦の区別であろう。
制度として存在する「結婚」においては、やはり、その存在が社会的なものでもあるため、近親婚は禁止されるのかもしれない。だが、上記のような理由で本当に近親相姦も禁止されるのだろうか?
《04.06.13追記》
そして「性的虐待はセクシャルハラスメントである」ことも改めて強調しておこう。
そもそも「セクシャルハラスメント」とは、権力や上下関係などを傘に、相手が反抗できないことを良いことに、性的な嫌がらせを行うことを指す。
だからこそ上司が部下に卑猥な下ネタを言うことも、部下が反抗できない権力関係に取り込まれている以上、「セクハラ」と呼ばれるのである。同じようにして教授が学生にセクハラをする「アカハラ」も同じようにセクシャルハラスメントである。
その権力関係こそが問題なのだ。
何故か? それは、個人の自由が疎外され、自己選択、あるいは自己責任が生じない場面になるからである。《追記、ここまで》
とりあえず禁忌の起源については、想像の域を抜け出すのは容易ではないだろう。
しかし、ある理由があり、近親相姦を回避する倫理が生まれ、それに育まれたために我々も無意識のうちに禁忌として拒絶するようになっていることだけは確かである。
ただし、今回、私が提案するのは「近親相姦はタブーではない」という考えである。
禁忌だ、倫理だ、と世間が騒ぎ立てても、やはり倫理観である以上は、そこから抜け出す者も存在する。しかも起源がはっきりと把握されていないし、推定される起源も「集団の社会化のため」とかいう説明なわけで、そんな禁忌には「従わねば!」という気持ちも薄れてしまうことであろう(笑)。
つまり、実際に多くの近親による性的虐待事件が起こっているなかで、禁忌に代わる抑制のルールを定めようではないか、というのが私の提案なのである。
では、どのような関係性を規制すればいいのだろうか?
たとえば想像してもらいたい。
67歳の父親と、34歳の娘が肉体関係を持ったとして、それほどショックだろうか?
もちろん我々は「近親相姦はいけないことだ」という間違った倫理観に洗脳されているために、ちょっとした嫌悪感は持つだろう。だが、たとえば11歳の娘と34歳の父親が関係を持つのに比べたら、そのショックは少ないのではないだろうか。
性別が判断を鈍らすというならば、もちろんその逆でもいい。
父67歳 - 娘34歳
母67歳 - 息子34歳
父34歳 - 娘11歳
母34歳 - 息子11歳
父28歳 - 娘5歳
母28歳 - 息子5歳
何故だろう、上の2項目については私などは「いい年なんだから自己責任で好きにしてくれ」などと考えてしまうのである。正直、まあ、個人の自由だなぁ、と(笑)。
だが、子供たちが年端も行かない年齢になると、もうダメである。バリバリに倫理観が働きまくって、物凄い勢いで全身全霊が拒絶しまくるのだ。
それは何故だろうか。
まず、養育関係にあるということは、ある意味、絶対主義的な関係性に閉じ込められていることを意味する。その中で、子供には自己責任能力も糞も残されていないわけである。さらに、その関係性においては、ただでさえ子供は搾取されやすい儚い存在でしかない。だからこそ、養育者は、その子供に対して無報酬で庇護してやることが義務づけられるのである。
もちろん、それは甘やかすことを意味するのではないのだが。
つまり、禁忌の定義を再編集するとすれば人間は、自分の庇護下にあるべき子供を、性欲の対象にすることを禁忌にしているとするべきなのだろう。
この定義からすれば、いくら血の繋がりのない養子であっても、自分が養育している以上は肉体関係を結ぶことは倫理にもとる行為ということになるだろう。
つーか、自己判断能力のない子供を性欲の餌食にすることが、そもそも許しがたい行為だけどな。死んで償え。人間なんか辞めちまえ。
もちろん他人の子供であっても、そこに自己判断能力が認められない場合は、あくまでも自分が庇護するべき対象なわけで、性的対象にしてはならないことになる。
これらの禁忌は、あくまでもペドロフィリアの嗜好を否定するものではないことも言っておこう。いろんな人がいろんな趣味を持つことに関しては、大いに賛成である。
だが、実行しないでくれ。
性行為は、あくまでも独り勝手に行う事ではなく、複数人での共同作業なのだから。
それぞれ自己責任を持った個人たちが、この地球上にて、自由に恋愛し、喧嘩し、生きることを私は望んでいる。だからこそ個人の行動を無駄に制限する必要はないと思うし、逆にいえば、「個人」の範疇も的確に定めておかねばならないと考えている。子供は未だに「個人」ではないのである。
だが、もしも年齢的には子供でも、「個人」であるならば私に制限する理由はない。
なぜなら、我々は自由だからだ。
【追記】04.06.10
オフラインなどで指摘されるだろうが、確かに思考が甘いので、さらに煮詰めて考えていくべきテーマだと思っている。ちょくちょく細かい部分や全体的な構成なども変更していくので、気になったら覗いていただけると執筆者冥利に尽きるだろう。なお、自分自身で満足できる論述が完成した暁にはタイトルに「決定稿」という文字を付け加えるので、それを参考にしていただいても構わない。
なお、当初と言っていることが180度転換してしまう可能性もあるが、論理の忠実な下僕である私は特に気にしない。私に、私固有の意見など存在しない。
表面的な結論だけで賛成だの反対だの言いたくなる人は、是非とも政治の場に出て行くべきであろう。私には「結論」など日々排出される糞みたいなものでしかないからだ。似たようなウンコをするからといって仲間意識を持たれても誰だって困るだろう。私はそれよりも好きな食べ物が似通っている人が好きだし、排便の方法が個性的な人とは是非とも話をしてみたいと思う。便秘の苦悩を聴くことだって充分に魅力的だろう。ただしウンコの形や色艶などで評価されるのはお断りである。
比喩を使わずに簡単に言うならば「結果よりも過程」。