›2004年 6月 22日

[ 範疇 : 音楽的生活 ]

バッハ大好き!

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 最近、J.S.バッハにハマっている。よく音楽室に飾ってある肖像画を見たことがあるだろう。あるいは、こうも断言できる。
 バッハの曲を耳にしたことのない人間は、ほとんどいないだろう。

 Johhan Sebastian Bach。1685年3月21日、ドイツのアイゼナッハ生まれ。8人兄弟の末っ子。当時は作曲家としてよりもオルガニストとして名が知られ、教会の音楽監督を勤めながら無数の名曲たちを生み出し、1750年、66歳で死去。その死後、忘れ去られていた名声がバッハを見出した人々の間でジワジワと開花し、現代ではバロックの代表者、いやむしろ「音楽の父」として讃えられるまでに至っている。その楽曲はクラシック音楽関係者はもちろん、分野違いのジャズやヘヴィメタルの人からも絶賛されているほどだ。
 実際にMIDI音源を置いてあるサイトを訪れ、聴いてみると良いだろう。
 J.S.Bach MIDI Archiv
 バッハ工房
 
 ここ数日、私はキングクリムゾンやクラシック、オペラなど、俗に「高尚」とされる音楽を聴き続けている。それによって判明したことは次のひとつである。
 クラシックは決して高尚な音楽ではない。
 もちろん聴く人が聴けば高尚に聴く事もできるだろう。
 その高尚な聴き方とはなにか。それは例えばフーガ形式がどのように現れているか、などを分析的に聴く方法である。その音に組み合わせが、どのような効果を聞き手に与えるのか、その作曲家の狙いなどを看破する試みこそが、大胆不敵な知的冒険であり、それこそが高尚な精神だと言い得るのであろう。
 つまり、普通に愛聴しているだけでは、退屈なクラシックを聴いていようが、忌まわしきJ-POPを聴いていようが、能天気なヘヴィメタルを聴いていようが、音楽を聴いているだけであり、特にジャンルの差はないのである。
 作曲者がバッハだろうが、平松恵理だろうが、特に大差はない。
 逆に言えば、倉木麻衣だろうが、ベートーヴェンだろうが、聴き方さえ高尚ならば、充分に高尚な音楽になりえるのである。要するに音と音の組み合わせを音楽として楽しむことを覚えた人間の性質を、自分自身の反応を試金石にしながら明らかにしていくことにつながるからだ。
 たとえば作曲する人は、その音がどのような反応を生み出すかを常に予測しながら作曲していることだろう。あるいは、それが長年の間にノウハウとして定着した「音楽理論」というものを利用している人も多いことだろう。和音の構成などは、まさしくその典型例である。
 
 それでもクラシックであれば、それだけで高尚だと主張する人がいるならば、私はあえて問おう。
 もしかして高尚の定義は「退屈」とか「気取っている」とかでしたっけ?(笑)
 
 ちなみにバッハと同世代の人間にパッヘルベルという人物がいる。つまりはパッヘルベルのカノンの作曲者として知られている人物だ。
 くわしいことはカノン研究室の詳細なデータをお読みください。
  さて、このカノンを聴いていて「どっかで聴いたなぁ…」と記憶をまさぐっていたが、ついに思い当たったのが名作フラッシュ「君と僕」でした。
 一度でも動物を愛したことがある人ならば、心に響くものがあると思います。
 名曲の調べとともに「君と僕」を是非ともご鑑賞ください。
 ちなみに作者さんのサイトはこちら
 
 ストーリーは確かに月並みかもしれないけど、やはり良いものは良いんですよ(笑)。
 私は声を上げそうになりながら泣きましたしね(笑)。
 ちなみに血も涙もないザシキ師匠は「動物はこんなこと考えない!」と科学的に批判していましたが、この作品は動物ドキュメンタリーではありません。あくまでも動物の姿を借りながら、人間にとっての動物の存在を主題にした人間の生活に関わる物語なわけで、半端な動物たちが喋るディズニー映画とはワケが違います(笑)。
 「ファインディング・ニモ」とか「ブラザー・ベア」とかを家族そろって鑑賞してしまうような幸せの構図は私の最も憎むものである。むしろ「死霊のはらわた」とか見ながら家族そろってケタケタ笑った方が幸せだと思いまっせ(笑)。

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