
2002年12月、まさに大学再入学のために哲学史の勉強に追われていた頃、私はクラシック音楽と出会った。
それまでにも確かに大バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」などは好きだったし、クラシック音楽はそれほど嫌いでもなかった。が、やはり、まず「クラシック好き」と言われる人のイメージが悪すぎたのだ(笑)。もうほとんど「ジャズ好き」と言われる人と同じくらいイメージが悪い(笑)。
高尚で、綺麗で、壮大で、知的で、文化的で、お高くとまっていて…。
つまり、クラシック音楽などはロック中心だった私からすれば、とっても退屈で綺麗なだけの気取ったものだと思っていたのだ。あるいは学校の授業で音楽室で半ば強制的に聴かされるだけの音楽だった。やはり退屈なイメージはつきまとう。
だが、なにげなく「ベートーヴェン交響曲第9番合唱付」を始めて聴いた時に、その考えは、いとも簡単に覆されることになった。
始めて聴いたベートーベン第9交響曲は、以下のCDである。

フルトヴェングラー「ベートーヴェン交響曲第9番合唱付(フィルハーモニアO.)ルツェルン音楽祭」キングレコード
その圧倒的な迫力、壮大な救いと歓喜に満ちた歌詞、そして緩急の絶妙な構成。そのいずれもが一級品であり、すぐに私の心は第九に捕われることになったのである。
折しも季節は第九が名物のように演奏される師走の頃。
佐渡裕が指揮する1万人の第九が開催されたり、カラヤン、ラトル、佐渡裕、小澤征爾などの巨匠たちの第九が一斉にリリースされたりと巷を騒がせていたこともあり、知らず知らずのうちに第九ばかりを聴き比べることになったのである。
そして驚いた。
ロックではドラムのリズムに合わせて曲は展開していく。だが、ドラムが前衛的にテンポを変えたとしても、いきなりでは他のメンバーも面食らってしまい、結局は演奏がバラバラで聴くに堪えないものになってしまう。
だがクラシックでは、指揮者のタクト1本で、テンポから音量までが変幻自在に表現されるのだ。それこそ、まさに作曲に匹敵するくらい、音楽でなされる表現活動であろうことは疑うべくもない。
それくらいに指揮者の楽曲に対する解釈により、演奏が異なっていたのだ。
それに気がつき、そして感動してからは、私はクラシック音楽の表現性に、現代の芸術としての音楽と同じもの、いや、それ以上に積極的な芸術性を感じるようになったのである。
上記の録音は1954年フルトヴェングラーがスイスのルツェルン音楽祭で指揮したもので、くわしいデータなどはshin-pさんのフルトヴェングラー資料室を参照していただきたい。
演奏は極めてハイスピードで畳み込まれるように展開される。また高音部分が録音のためだろうが強調され、まるで魂が本当に天めがけて登り詰めるかのような、最後の感動を約束している。すでに腐るくらい耳にして聴き飽きているはずなのに、未だに聴くたびに感動して涙が出てくるから不思議である。まさにシラーの「歓喜によせて」に託され、歌い上げられた、苦悩に打ちひしがれる人間たちが神の御許でひとつに集い寄るという歓喜を宣言すること…それが真摯なまでにフルトヴェングラーの演奏には込められていると今でも思っている。
このフルトヴェングラーというオッサン、なんとナチ政権下のベルリンでも第9を指揮した人。その波瀾に満ちた人生が、彼の姿に苦悩の芸術家のイメージを与える。そう、彼こそは音楽を通じ、自分の救済、そして人類の救済を真剣に悩んだ人なのかもしれない。
一説によると、そのヒトラー誕生祝賀前夜祭、あるいはキッテル合唱団40周年記念演奏会ライヴの録音だというCDが、なんとダイソーで105円で売られていたりする。録音状態は激悪なのだが、その迫撃砲とも比喩される最後のドラム、そして緩急の急の部分がありえないくらいの疾走感を持って展開されるところなどは、かなり迫力を帯びていて聴いて損のない一枚だと確信している。
ほかにはバイロイト盤と呼ばれる一枚がある。

フルトヴェングラー「ベートーヴェン交響曲第9番ニ短調Op.125"合唱" バイロイト祝祭管弦楽団」東芝EMI
これは合唱部分は多少こもって聞き取りづらい部分があるものの、私はルツェルン盤よりも壮大さ、華麗さが表現されているようには思える。ただ…900小節以降の緩急のつけ方が、私にはルツェルン盤こそが天上の世界へ昇るイメージと見事に一致しているのだ。だから私はどうしても聴くときはルツェルン盤を選んでしまう。
ラトルのCDや、テレビで放映していた佐渡裕、小澤征爾の演奏も聴いてみたが、どうしてもコーダ部分がまったりしすぎて私は好きになれなかった。
だが、少なくとも、指揮者によって楽曲の印象がガラリと変わることだけは実感できたと言えよう。それだけでも「ありがとう」と言いたいくらいだ。
クラシック音楽は、けっして高尚なものでもなければ、過去の遺産でもない。
現在進行形で、常に試行錯誤されている挑戦的な表現活動なのだ。
それは深夜の駅前でダンスを練習する若者たちや、惚れた女性の興味を惹くために大言壮語を繰り返す若者たちと同じように、自分の中にある何かを「表現」しているのである。
だから価値がある。
あらゆるものと切り離されて、それだけで「価値のある」ような絶対的なものなど存在しないし、クラシック音楽は、あくまでJ-Popやパンクと同じように音の寄せ集まった「音楽」でしかない。それ以上の意味などない。
だからこそ、まずは聴いてみよう。
第九交響曲を聴くにあたっては、その歌詞を理解することも大きな助けになると思われる。
たとえば、こんな記述を読みながら耳を傾ければ、作曲したベートーヴェンにまで心がつながることだろう。
全合奏が絶叫する中、クライマックス(b.904)で1v.の冒頭がユニゾンで戻ってきて、ついに、神々(Götter)が最高音でffになる。天上の世界の扉が開かれたのだ。
from The Web KANZAKI:ベートーベン第九の歌詞と音楽
>が、やはり、まず「クラシック好き」と言われる人のイメージが悪すぎたのだ(笑)。
>もうほとんど「ジャズ好き」と言われる人と同じくらいイメージが悪い(笑)。
ああ、オイラの中での「マック好き」のようなもんですね(笑
という冗談は置いといて。
第9の合唱は興味あるんですよ。
高校の時、近所の女子校とHallelujahを合唱したときに、第9にも誘われたんですがね。
クラシックの指揮者も興味あるけど、やっぱやるなら合唱の指揮者をやってみたいかも。
指揮者って、「世界が認めた独裁者」ってイメージがあって、そこにちょっとあこがれてる部分もあるけども、やっぱり気持ちよさそうな部分が一番大きくて。
ああ。
毎度々々、チープなコメントで申し訳。
クラシックに限らず指揮者は大変だと思いますよ! それこそ楽器の演奏だったら譜面が読めて、要求された演奏をすればいいものの、指揮者は全パートを把握するだけでなく、楽曲の構成からリズムから何まで全てを自分の支配下に置かなければならないんですから。
なにかを支配するってことは、隅々まで自分の影響下に置くことであり、微に入り、細を穿ち、全体をひとつの有機体のようにまとめあげる必要があるのです。
そういう意味では歴史上の暴君たちは支配者ではありませんでした…とも言えるわな。話がそれるけど(笑)。
個人的には指揮の爽快感は、自分の音楽を実現させるという表現上のカタルシスと、あとは音楽と一体になるという快感なんじゃないかと思っています。
演奏者に対して権力を持っているように見えるけど、あれも極端に言えば、楽器を支配するようなもんで、権力とは違う関係性でしょうしね。演奏者は人間ではなくて、楽器を演奏するだけの道具…って言ったら極端すぎて怒られそうだわな(笑)。むにゃむにゃ。
とりあえず第九はいいね。独逸語ってところが良い(笑)。私も合唱したいですわ。