
昨今の日本では、「17歳の犯罪」ということで、なにかと少年犯罪が話題になっている。つい最近も少年法の改正が施行されたばかり。その一方で、純粋な「少年犯罪」の件数は低下しているという事実もある。このことは何を表しているのだろうか?
私は、その因果ゆえに教育関係者の知り合いが多い。ぶっちゃけてしまえば、小学校の教師が多い。それゆえ、友に捧げる感覚で、教育に関することを述べてみたいと思っている。尋常ならぬ苦労を強いられる教職という仕事を選んだ友たちへの、ささやかな応援歌だと思ってもらえれば良い。
なお、私は社会批評などは「語られる」だけのものだと思っているので、重大問題づらして扱う気など毛頭ない。そればかりか苦手ですらあるのだ。よって、この教育論も、決して「社会批評」にはならない予定である。
幕末や明治期の志士に憧れる「議論家」や、政治や法律について語ることが「偉い」と思っている「インテリ」氏は、他のページを御覧戴くことをお勧めする。
私にとっての社会とは現象の舞台である。それゆえ社会批評は、演劇の感想みたいなものである。その扱いに腹を立てる人は、即刻、新天地を求めて旅立つべきであろう。拡散した電子網の海において、この港に長居をする理由も見当たらないはずなのだ。Bon Voyage!!
さて、私が問題としたいのは、要点としては「教員は職業か?」ということになる。
以前、恩師の発言でこのようなものがあった。「結婚して辞めたりするような心構えの奴には、教師になってもらいたくない」。その意図は、想像するに「教師は聖職」とでもいうことだったのだろうか。個人的事情などで辞めるべきではなく、定時になっても終わる事のない「教員」という立場。そんなものは「職業」ではない。
個人と生活手段としての「職業」という関係を否定し、いつ何時であろうとも「教師」である事が求められる地方公務員。何故、教員に対して、そこまでの滅私奉公を求めるのだろうか?
「公務員」ということも、ひとつの着眼点かも知れないが、私には事態はもっと重大な問題を孕んでいるように思える。そのヒントとなるのが「学校に預ける」という言葉である。ここでは肉親に代わって子供の面倒を見るべき「代理親」としての「教師」像が浮かび上がってくるだろう。つまりは「学校」は、もうひとつの「家庭」であるべき、ということなのだ。
ここで福沢諭吉の言を引いておこう。「病気に医者あり、教育に教師ありとて、7、8円の金を以って父母の代人を買入れ、己が荷物を人に負わせ本人は得々」だの「学校はあたかも不用の子供を投棄する場所」だの『福沢文集』には書かれている。学制公布の頃から既に問題は芽吹いていたらしい。
このような現象が生じた原因としては、「義務教育」という半ば強制的な就学制度と、その対象になる生徒が、未発達の「子供」だったということが挙げられよう。
そもそも、義務教育が成立したのは日本では1872年。中央集権的な富国強兵と啓蒙主義が理由だった。つまり義務教育の理念は「統一的・均一的な国民の形成」「知識・技能の習得の場」ということになる。ナショナリズムの時代の果てに、現在では人間主義などの影響も受け、義務教育はより啓蒙的な傾向を高めていったが、逆に混乱も生み出してしまった。そのひとつが学歴主義の台頭であるし、根源的な問題としては義務教育自身の意味がわからなくなってしまったことが挙げられる。
国家と家庭のアナロジーによって構成されていた「義務教育」が、家庭と国家の分裂が進行した状況で、どのような状態に陥るか…想像に難くはないだろう。
また、そのアナロジーが、教師を「代理親」としてしまう根本ということができるのだ。簡単にいえば、そもそも親権として与えられていた教育権を国家に移項させたものが「義務教育」である。だから「教育」といって「親」的な働きを行ってしまうことは当然、あり得る話であろう。
また、論理的にいっても、一定時間、集団で子供を管理する公的な機関である以上、ある程度の安全保障が必要となる。同時に未発達の「子供」を教育するということは、「学習指導」と「生活指導」の入り混ざったものにならざるを得ない。倫理・道徳というプライベートなことまでも「義務教育」が行うことになってしまうのだ。ゆえに「義務教育」者は、万民の「代理親」、すなわち「聖職者」であることを期待されてしまうのである。性質として道徳的であるべきだからこそ、その人物の性質として「不道徳」なことがあってはならない。「聖職者」には、どんな知識よりも、「性質」こそが第一の資格として要求されている。だから四六時中、その人物は「教員」であり続けなければならないのだ。
これは、あまりに劣悪な労働条件ではないだろうか?
もはや国家の呪縛は弱まり、新たなる共同体として把握されねばならない時代になっている。義務教育観も変わるべきではないだろうか?
ひとつのあり方としては、義務教育発足時と同じような考えに立ち、「国民の中には親としての教育権が充分に果たせない者もいるので、国家として補ってやろう」と、さらに「親」的な意識を高める義務教育も考えられるだろう。ナショナリズムから導かれる福祉としての教育制度だが、ネグレクト(育児放棄)なども見受けられる昨今の状況からは、あながち反対すべきものでもないのかもしれない。究極的には社会主義的な、家庭と育児の分離を果たす施設も考えられるだろう。
もうひとつのあり方が、やはり「国家のものは国家のものへ、親のものは親のものへ」として、道徳的・人間的教育は完全に「家庭」に返すという考えである。すると「義務教育」における「教育」という範囲は、社会の一員としての下地を形成する部分に搾られる。問題は、やはり「教育を行えない親」というところであり、しかも実際にその数は、聞いている限りではかなり多いようである。共同体として、構成員全体の状態を維持しようと思うのであれば、上記のような教育施設は必要になるだろう。そして、それは各自の「国家」「共同体」「家庭」といった公私概念の違いに関わるので、あえてここではくわしくは語らない。
私の個人的な好き嫌いでいえば、私は後者の「教育」こそ義務教育でなされるべきだと考えている。個人の思想・信条まで踏み込むような「人間教育」は、むしろ国家に主導されたくはない。それに「個性」というものを考えても、義務教育という一斉型の教育では、生かし切れないのではないかと考えてもいる。すると残る問題は、「義務教育」でなにを教えるのか? …つまりは学歴主義の問題になってくる。
現在、塾が大隆盛である。小学生でも日夜、9時過ぎまで塾に残り、「受験勉強」に熱意を燃やし、彼らは「学校なんかツマンない! 塾の方が面白〜いっ!」と口を揃えていう。
だが、私から見れば、あの「勉強」は学問ではない。あくまで「受験勉強」でしかないようだ。しかも、恐るべきことに、あれらの「受験勉強」は、かえって学問を殺しかねないとまで思っている。果たして、そんな「勉強」が必要なのだろうか?
そんな学問偏重主義の私に対して、「学問なんて、人生に役立つ訳ではない」という方もいるだろうが、私には「受験勉強」の方が人生に役立つとは思えない。現状で役立つのは「入学試験」ぐらいだろう。そして、学問を行うべき場でありながら、学問でなく「勉強」で合否を決めるという入試自体に疑問を持っているだから、はっきりいって「受験勉強」など消滅すべきだとまで考えている。
あの「科挙」制度で判別できるのは、学問的才能ではなく、ただの「根性」だけだ。もし、それがわかって行っているのならば、大したエジソン信者だといえよう。
義務教育で教えうるものは何か。
私は人間として社会へ出ていくための選択肢を増やすことだと考えている。そのためにも最低限の計算方法は教えるべきだし、人間とは歴史的・社会的に「作られる」存在であるがゆえに、人間として豊かに生きるための教養も必要となるだろう。
だが、危惧するのは、義務教育でも点取りゲームとして「国語」や「数学」を扱うことである。それこそが、「学問を殺す」行為である。また、私の親愛なる小学校教員には、そんな冷たい授業を行っては欲しくはない。あんなに人間的に豊かで魅力的な人物が、カリカリと点を取らせることに熱意を燃やしているような姿は、想像するだけで私の心を苦しませる。目標達成のための「法則化」も糞喰らえ。算数や跳び箱なんか出来なくとも、結局は「人間」として生きていけるではないか。課題目標を達成することが大切なのではなく、要は、その過程において、どれだけの興味を抱かせることができたか、であろう。ぶっちゃけてしまえば、実験が上手く行かなくたって興味さえあれば再実験もするだろうし、解き直しだってするのである。「大人」の目の前で子供の「全現象」を起こさせようという考えこそ管理教育なのではないだろうか?
そんな教育は市場の論理からも塾では行い得ない。現在の塾は、現在、要求された顧客のニーズに答えるだけだ。
だからこそ、私は「義務教育」に期待する。「義務教育」は塾にならなくていい。教員は塾講師化してはならない。そここそが、公教育、最後の砦なのだろうから。
【追記】
ただし、残された問題がある。それは、現在の親たちが、自分の仕事の間の託児所がわりに学校・塾を使っているという、ある一面での事実である。それこそ社会の構造改革から始めなければ、義務教育も「人間教育」も変われないのではないか…。
ここまで歪んだ社会に対症療法だけでは、効果も大して期待できないだろう。もし、治癒したいのならば、抜本的な改革こそ必要であろう。
…「痛い」かどうかは、さて置き。