
私の教育主義は、まずは何事も行わせることである。
結局、世界は各自の認知の範囲でしかない。その範囲を「身体」というならば、世界は各自の「身体」でしかない。
自らの身体と能力が、どの範囲まで有効か確かめておくことが必要である。
いわば、「身の程をわきまえる」「分を知る」とでもいったところか。
それが体感できず、「あれあれは危険だから…」「何々はしてはいけません」という禁忌による教育は、イデオロギーによる洗脳でしかなく、成人後も容易にイデオロギーに転ぶ人間の土壌を形成してしまうだろう。
「身体」を拘束した状態で、横から「これは水よ」と教えても理解レベルは浅い。その名前を知る程度でしかないだろう。生きた身体に経験された知識こそが、そのまま生きた世界なのである。
各自で考えることも自然とついてくるだろう。そうすれば知らない知識も推測で補う術も身につける。
また、禁忌による教育は、そのままイデオロギーの継承でしかない。いわば、自分のコピーをつくろうという露骨な証であるし、教育対象が自分と同じ価値観を持つという先入観があることも明らかであろう。個性は、認められていない。
家庭の場合、「最小単位としての国家」の姿である。
DNAだのは土壌でしかなく、重要なのは湿度と日照と生息する微生物である。なのに、「同じような花を咲かせなさい」と、強引な間引きを行う「教育熱心さ」。画一的で、ありきたりな「理想」があり、そこに近づけていこうというのだ。そんな型抜きモデルには魅力も感じないし、ブロイラーは病弱で味も落ちるだろう。
塾だの図書館だのに押し込む教育は、結局はテレビの前に縛り付ける状態となんら変わるところがない。むしろ野に放て。死んだら、それまでだ。
他人を殴り、殴り返される。話し掛けて、声が返ってくる。女性を愛して、騙される。そんなコミュニケーションから、名前だけの言葉が世界を帯びることになる。
そのように豊かに育まれた大地には、下手な養分など必要ない。テレビや新聞の論説など、せっかくの下地を均一化してしまう有害な化学肥料でしかない。経験さえ充分にしていれば、的確な思考は行い得るのである。筆者も含めた無能な論説者の無駄な思考は近付けないようにすべきである。
大都会・東京は、まさにコンクリート・ジャングルである。夜の渋谷は未開地であり、秋葉原は異民族のテリトリー。原宿には保育園のお遊戯会が常設され、上野では県民のるつぼを見ることができる。巣鴨などは天国に一番近い街だろう。あまりにも室内に籠りやすい文化がそろっているが、東京は偉大なる原野であるのだ。
いざ、野に放て。手を加えないことが最大の教育になる。そして戦利品としての話を、真剣に聞いてあげるのだ。それで愛情を感じ、子供は精神的にも安心して育つだろう。
教育心理学で、乳児が母親の眼に映った自分の姿を見ることが自己認識の始まりだという話がある。それはともかく、自分の言動にきちんと対応して反応が返ってくることで、自分の存在を安心することができるのだ。決まりきった常套句を返すことは「対応」ではないのだ。そんなことは簡易会話型人工知能にだってできることだ。
私自身が育てられた環境を反面教師に、上記のような教育を行いたいと願っている。