›2001年 3月 24日

[ 範疇 : 倫理の小道 ]

勝手に政治論

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【注意】
以下の文章には、政治的に不快なものが含まれる可能性があります。
政治的に不自由な方は、当項目を読み飛ばすことをお薦め致します。
また、当項目を読んだことによって、いかなる事態を引き起こそうとも、
著者の責任は一切、問わないものと致します。
以上の条項に同意される方のみ、各自の責任において
以下を文章を読むことを許可致します。

「海月って、政治的には、どうなの?」
 たまに聞かれるこんな問い。私は「日本では左寄り。世界的には中立」と答えるようにしています。  要するに「行為者たるよりも観察者たらん」とする私のスタンスが、政治的には「中立」と呼ぶのが妥当だということです。そして、惜しむらむべくは、日本においては「中立」という立場も「左派」として括られてしまう事実もあり、それも含めての表現になります。
 日本の思想的な区分というものは奇妙なもので、「右派/左派/無関心」しか見受けられません。ゆえに自称「中立」の人々も、多くは左派的思想に取り憑かれているのが実情です。たとえば「天皇制」「戦争責任」「国家権力」など、左派垂涎の話題がありますが、それに対しての見解が模範解答から外れたとたん、良識ある「中立」のインテリたちから「転向」だの「右翼思想の持主」などと白い目を向けられます。「保守的な左派イデオロギー」とは、いったい、どこが革新的なんでしょうか?
 
 そうはいえども、たしかに「中立」という立場は曖昧です。また、私の考えが、右派よりは左派に合流することが多いというのも事実です。…ええ、結果としては、ちっとも「中立」なんかじゃありません。むしろ、広大な思想の海に、ふらふらと漂っているだけだと表現した方がいいのかもしれません。そう、私は、自分に合う水を探して彷徨っているだけなのです。
 
 だが、私は「中立」と自己査定し続けます。そして、その根拠は私の価値基準にあります。私にとっての「善/悪」は、「正/誤」であり、論理的「真/偽」に至るものでありたい、と思っています。すると、あらゆる政治的な倫理判定についても、そういった分析を行う必要が出てきます。そして、その前提と演繹さえ妥当ならば、その結論はどんなに右派的なものであっても容認すべきものなのです。
 
 ここで政治の難しさが出てくるのですが、その前提となる価値観や条件は、まさに人それぞれであります。当たり前のことを再確認しておきますが、政治とは「共同体の運営」という意味であり、「その共同体内部の最大多数者の幸福を実現する」ことこそ必要になります。つまり、そこには「絶対の真理」も糞もない、ただシビアなだけの世界になります。残る問題は、「共同体」をどこまでで区切るかということや、「幸福」とは何かという定義の問題になります。
 とにかく、「真」なる結論を比較するためには、それらの前提条件を見極める必要があり、そのために客観的視点、すなわち「中立」という立場が要請されるのです。そして、その結論は思想的ドグマに支配されないからこそ、厳密な「中立」とはいえなくなってしまいます。ゆえに私の「中立」は、決して中立ではないということになるのです。
 
 また、さらにいえば、そもそもの「行為者たるよりも観察者たらん」という姿勢についても批判があることでしょう。「人間は生まれながらに政治的なものに組み込まれている」というテーゼもあります。フーコーなどを担ぎ出し、「そのクセに『客観的』とは無責任だ、ワッショイ!」と反論する方もおられることでしょう。だが、「政治に組み込まれている」という事実から、どのように「積極的に参加すべし」という帰結が導かれるのでしょうか? その能動性への演繹には、別のイデオロギーの介入を待たなくてはいけないように見受けられます。受動的に政治に組み込まれているだけの市民が、何故に否定されなくてはいけないのでしょうか? 現代の社会システムでの義務/権利という参加形態を否定するというならば、それは「政治」という概念を弄ぶだけで、むしろ実際の政治には参加していないといえるのではないでしょうか? 少なくとも、「権利」とは「義務」ではないのです。
 
 行為者には行為者なりの「権利」や「責任」もあるでしょう。また、政治を変える力として、現行の政治システムが認めるものには、選挙権もありますし、被選挙権もあるのです。都知事選で豊臣秀吉やら月光仮面が立候補したのは、政治システムにおいての当然の権利だということを広く知らしめたといえるでしょう。ばかりか国民は解散請求、リコールなどの諸権利を有しています。もし、個人的な我が儘でないのならば、それは大いに利用すべきでしょう。そして、また、現行のシステム自体に文句があるのならば、声高に主張するなどの行為によって、変えていく努力を払わなければなりません。
 そして、私は蚊屋の外から、それらを観察し、分析します。
 
 若者が酒場でクダをまいて、政治思想を語っている間にも、日本各地ではゴミ集積場問題などで公共団体と住人の対立が起こっていたりもします。そんな場所にこそ必要なのは人手です。ひとりでも多くの人間がいるだけでも「座り込み」は容易になるでしょう。また、その人物が熱弁を振るえるのならば、世論に訴えかけることもでき、大きな力を得ることができます。社会の為に働くことは、「政治」という語を使わなくてもできます。右派だの左派だの名づけて、その派閥内で馴れ合うよりも、より「社会的」に思えるのは私だけでしょうか?
 
 そもそも私は政治の話は嫌いです。宗教・戦争・政治・人の善し悪しなど、個人の立場によって考え方が変わってくるものには、話題として触れたくもありません。それらは話題ではなく、せいぜい議論になるべきものであります。ゆえに公共の場では、政治に関しては触れたくはありません。
 
 今回が明確に政治に触れた最初で最後になることでしょう。
 
 私は政治については義務教育で教えるくらいの知識しか持っていません。そんな無学な一書生の意見にすら反論もできないイデオロギーでは、真の意味での「幸福の実現」など果たすこともできないでしょう。いざ、衆愚のイデオロギーからの脱却を。秘めたる笑みを浮かべながら、本論がそのための幾ばかりかの試金石になれば、と願っています。

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