›2004年 4月 24日

[ 範疇 : 倫理の小道 ]
[ 範疇 : 哲学 ]

ささやかな幸せ

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 過度の幸せは心を蝕む麻薬です。
 だから私は「ささやかな幸せ」を強く推奨します。
 名づけて「ささやかな幸せ推進委員会」

 

 とんこつラーメンを食べていると幸せ
 友達からメールが来ると幸せ
 翌日が休日だと幸せ
 ビールの最初の一口が幸せ
 眠っていると幸せ
 ふとした時に隣に彼女がいると実感すると幸せ
 天気がいいと幸せ

 
 幸せって何だろう。
 以前、私の願望について書いたことがあったが、だからといって願望が実現することが幸せか、というと、別にそんなわけではない。
 満足はするだろうが、満足がすなわち幸せかというと、そうではないだろう。
 達成感や満足は、幸せの原因にはなりうるが、だからといって幸せそのものではない。
 状態と情感は、厳密に区別されなければならない。

 1年くらい前に同じように「幸せってなんだろう?」との疑問から、いろんなサイトを探し歩いたことがある。それこそ2ちゃんねるから宗教系のサイトまで覗いてみたのだが、そこで展開されている幸せの定義は、「幸せを実例で列挙するタイプ」「幸せを理想的な状態として憧れるタイプ」「幸せを手に入れるための方法を幸せと定義するタイプ」の3種類ばかりで、きちんとした定義がなされているわけでもなく、ぶっちゃけ、ちっとも対象化できずに「俺はこういうとき幸せだよ」という刹那的主観的な意見ばかりを述べているだけに留まっていた印象が残っている。
 お前個人の幸せなんぞ、どーでもいいっちゅうの!(笑)
 そういった意見は、たとえば私が「そんなん幸せでもなんでもない」と言った瞬間に、反例の誕生、そして定義の破綻に至る程度の浅はかなものでしかない。
 
 もちろん幸せになるために必要な具体的条件など存在はしない。
 神を信じなくても幸せにはなれるし、不健康でも貧乏でも幸せはやってくる。
 教条的に「生まれてきただけで幸せなんだ」と、押しつけがましく幸せを与えながら、それに気がつかなかった自分の不明を恥じろと言わんばかりの言説も、あまりに神懸かりすぎて私の「幸せ」ではないようである。
 私にとっての「幸せ」とは心理的に「感じる」状態であり、どのような条件が必要で、どのように幸せを感じるのか?という問いに答えられるものでないと、端的な解答とは考えられないのである。
 そうなるとトートロジーかと錯覚してしまいがちな「今の自分が幸福だと感じる状態になること」みたいな定義しか幸せには残されていないかに思えてくる。
 あるいは脳味噌のシナプスに脳内物質セロトニンが舞い踊った時に人間は幸せだ、と定義すればいいのだろうか? 
 
 …その通りだ。
 
 面倒くさいので、一気に結論してしまおう。
 人間が幸せになる瞬間とは、自分自身が本気で幸せだと思うような状況に、自らが置かれていると気がついた瞬間に生まれるものである。
 そして、そこから帰結するに、人間が幸せになるためには、数多くの「自分が本気で幸せだと思うような状況」を用意しておけばいいことになる。そして後は自分がそうであると気がつくだけである。
 
 もしも幸せになりたいのならば、もう少し自分自身に想像力を向けてみよう。
 きっとストーリーは無数に当てはまる。
 他人や瑣末な雑事に煩わされて、自分自身を埋没させてしまうのは、ちょっと勿体ないからね。

Comments

 念のため補足。
 たとえば毎日、いじめられているような子が、幸せになりたくて「いじめられている状況を幸せだと思うようにしよう」と思っても、それは救われない。
 なぜなら、彼自身は、「本当は」いじめられている状況が「幸せではない」ことを知っているから。
 そういう意味で「自分が本当に幸せだと思っている状態」という言葉は厳密に捉えられるべきであり、もしも自分が幸せだと思いたい人間は、自分自身の価値観を操作してでも、その状況が「本当に幸せである」と思い込まなければならないのである。
 もちろん、そのためには若干のテクニックが必要になるが、私の良き読者であれば、すべては理解されていることと思われる。
 …要するに自分という殻を捨てれば話は早いのだが。
 

Posted by: 管理人 [URL] at 2004年04月25日 04:58
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