
以前、日本のインターネットの歴史について書いた時に、ついつい「2ちゃんねる」ネタになり、日頃から複雑な思いを抱えていたために、かなり話も脱線してしまい、紹介しようとしたサイトの数々も紹介できないハメに陥ってしまった。
そのため、「2ちゃんねる」について独立した記事を用意することにした。それが当記事である。
まず読む上での指針となるであろう、執筆者のスタンスを以下に表明しておく。
私は「2ちゃんねる」利用者(2チャンネラー)ではない。
私は某匿名掲示板の利用者(住人)である。
上記リンクたちを参考に、2ちゃんねるを定義づけるとすると「不特定多数(匿名性)」「帰属意識」「コミュニケーション」「情報」などをキーワードとして挙げることができるだろう。
だが、忘れてはならないのは、ネット上には数多くの匿名掲示板が存在し、そのほとんどに上の定義が当てはまるということである。つまり上記リンクで論じられていることのほとんどが、他の匿名掲示板にも当てはまりうるということになる。なにも「2ちゃんねる」に限定する必要はないのである。
では、それら掲示板と「2ちゃんねる」は、なにが異なるのだろうか。
まず、それを理解するためには「2ちゃんねる」が台頭してきた時代的背景を理解する必要があるだろう。たまたまネットが爆発的勢いで人口に膾炙し、そのとき、たまたま情報源として話題になっていた「2ちゃんねる」に怒濤の勢いで人がなだれ込み、現在のように巨大な掲示板として存在するに至った。現在ではネットを接続したことのない中学生や猫や杓子でも「2ちゃんねる」の存在は知っているだろうし、老若男女、あまりに普通の一般大衆たちが遊びにくる場所となっているだろう。そこには、それまでは理系学生や研究者、文化人などが中心だったネットの世界とはかけ離れた、あまりにも井戸端的な、それこそ「じゃマール」や「少年ジャンブ」の読者投稿欄のようなコミュニティの社会があったわけだ。
そして匿名掲示板にありがちなように、帰属意識が「2ちゃんねる」にも存在し、利用者のことを「2チャンネラー」と称し、「2ちゃんねる用語」という独特の符牒を多用する傾向にある。
しかし、「2ちゃんねる」ほどではないものの、他の匿名掲示板でも一定の帰属意識は存在し、たとえば利用者を「住人」と称し、特殊な用語やお決まりのパターン、定型文などで会話が進行していく。ただし「2ちゃんねる」住人は、その度合いが極めて激しく、たとえば無関係のサイトでも「2ちゃんねる用語」を連発し、あるいは実生活でも利用していたりする。その愛着ぶり、依存ぶりには、他の匿名掲示板住人である私から見ても驚くべきものがある。
なぜ匿名掲示板に限って、こういった傾向が生まれるかは大変興味深い問題であろう。
直感から推測するに、その匿名性こそが、それぞれ参加者の個人性を遮蔽し、感情の対象を掲示板かあるいは管理人に集約することとなるのだろう。つまり「2ちゃんねる」を愛する人間は、そこにいる参加者よりも、掲示板あるいは管理人「ひろゆき」に愛着を示すしかない、ということになる。だが管理人はあくまでも一個人であり、雑多な不特定多数の参加者ではない。結果として愛着は掲示板という場そのものに注がれることになる。そして符牒などの定型的固有表現や「2チャンネラー」という総称が、その帰属意識をさらに助長する。
その結果として、web上に閉鎖的空間など存在しないのにも関わらず、閉鎖的コミュニティという錯覚が生まれてしまう。
なおネットの匿名性についての考察は以下を参照。
・PTA:スレッド型という戦場
・サイバースペースにおける知識-権力の問題
では、そもそも、何故に「2ちゃんねる」は愛されるようになるのだろうか。
…わからんヽ(;´ー`)ノ オテアゲ
またも直感的推論でしかないんだけど、まず「2ちゃんねる」のテーマ別、スレッド式というシステムが大きな要因を担っていることと思われる。ある特定の話題について語るには、他の匿名掲示板よりも都合がいい。そのために趣味の話をしたいオタクさんや、情報を求めている教えてクンなどが喜び勇んで「2ちゃんねる」に集結する。そして豊富な知識量を誇る趣味人と、半可通なファン、初心者などが入り交じりながら、巨大なコミュニティを構成しているのだ。
社会において、人数は、そのまま力の量を表す。
それは掲示板の世界でもあながち間違ってはいない。
そして閉鎖的コミュニティという幻想と、匿名性から錯覚する無責任さが、「なんでも自由に語れる空間」という意識を生み出す。それは誹謗中傷から、インモラルな趣味、嗜好、裏話、あるいは自分の過去だったり、懺悔だったり、もちろん「荒らし/騙り」という匿名掲示板の華も彩り高く咲き乱れる。
そんな敷居の低さも魅力となるのだろう。自分を受け入れてくれた「2ちゃんねる」という場所。そして、さまざまな事件を引き起こしてきた有名な「2ちゃんねる」に自分自身が参加しているということも、さらに自己愛を満たすのだろう。
私の遊びに行く匿名掲示板では、徹底的に厨房は忌み嫌われ、煽られ、無視され、しまいには強制的に弾かれてしまう。それは極めて高い閉鎖性ゆえ、ということもできるだろう。驚くべきことに「2ちゃんねる」では、そんな厨房すらも「厨房」というカテゴリの元に存在が容認されているように思えるのだ。その度量の広さには感嘆するばかりである。強制的に内集団を純化し、維持する方法を持たないからこそ、自発的に強烈な帰属意識を持つようになり、「自治」意識が打ち出されるようになったのだろうか。
排他的な集団では定型的固有表現が多用されるようになる、というのは常識に近いことだと思うが、この掲示板の観察から、次のような仮説は立てられやしないだろうか。
すなわち、排他性の高い集団ほど定型的固有表現は必要とされなくなり、適度に閉鎖的な集団の方がより定型的固有表現によって集団の維持を図ろうと努める傾向にある、という仮説である。
(´ー`)y-~~ ありえるね。
ただし、今まで書いてきたように「2ちゃんねる」は巨大になりすぎた。
匿名掲示板における醍醐味は、まさにその匿名性にある。固定ハンドルなど限られた極少数だけで充分なのであり、有象無象の参加者による自己主張なぞは百害あって一利なし。ただ邪魔なだけである。だが、コミュニケーションを求めて掲示板を訪れる人間にとっては、他者、そして自己を識別する記号として固定ハンドルは重要になってくる。
もちろんネットが遊びにすぎない世代の人間にとっては匿名であっても満足だろうが、たとえば掲示板世界が唯一の愉しみだったり、「本当の自分」などという錯覚を投影するような場所だったりすると、どうしても固定ハンドルをつけたくなってくるだろう。そして、顔見知りの固定ハンドルどもが馴れ合い、ローカルマナーをルールとし、「ネチケット」と呼んで強要する親和的に閉鎖されたコミュニティが成立する。それは人数が武器であり魅力であった大型匿名掲示板「2ちゃんねる」ではなくなってしまうだろう。ただの趣味の掲示板でしかない。
別にIPが記録されているとか、どうでもいいのだ。とりあえずの見た目の匿名性こそが重要なのである。この時代に本当にログを取っていない匿名掲示板があるとすれば、そこの管理人は阿呆以外のなにものでもないだろう。本当にいるんだったら俺は諸手を上げて大絶賛する(笑)。
また、よく聞くのが真面目な議論のためには匿名性は邪魔になる、という意見だが、純粋に内容を問題とした議論が行えれば、匿名性なぞ何の問題にもならない。荒らし騙りの類いは無視すれば良いだけの話である。むしろ言葉に困った時に、別の匿名氏が助けてくれたり、妙な横ヤリが逆に議論を深化させたりと、いろいろと面白い現象を引き起こしたりもする。
もちろん、円滑な議論などは絶対にありえないので、それを匿名掲示板に求めるのは無い物ねだりでしかないのだが。
まあ、いろいろ書いてきたけど、とりあえず結論。
久しぶりにそういった匿名掲示板に行って、同世代のオッサンたちと小学校時代の初恋話に華を咲かせるのは愉快だったりするんで、俺的にはAll O.K.です(笑)。