
禅。
そうと言うと、そこに宗教的な匂いを嗅ぎ取り、ある者は身構え、ある者は恐れを抱くのかも知れない。
だが、あくまでも「禅的」である。
ゴータマ=シッダールタ以来、二千年以上の歴史を育み、無数の衆生を救ってきた仏教の智慧。それを利用することは智慧者の行いでこそあれ、決して非近代的かつ無知蒙昧な行為ではないはずだろう。
むしろ、ただ恐れを抱き、反発する、嘲笑する…。そんな人々の姿に、逆に言いようのない不安が隠されているように私には思えるのである。
彼らが救ってきたのは、時代こそ異なるが、同じ生命機構を備えた人間である。その二千年の効果は、時代性だけで切り捨てられるほどヤワではないはずである。
また、我々の生きる「近代」という時代は、概念としての人間像の追求のあまりに、実際に生きている「生の」人間が、あまりにも見えなくなってしまい、それゆえ新たなる苦しみに苛まれ始めた時代ともいえよう。そして、そんな時、唯物的な構造論に対して、生々しい「実存主義」が補完のために現れる。それは社会的肉体的な「人間」と、主観的意識的な「人間」との乖離が原因となって生み出した、落とし子だともいえる。それゆえに我々の主観には、常識から隔絶された「人間学」こそが必要なのだ。
そして、いくつかの理論の中でも、禅ほど人間に即した「実存主義」は、他には見当たらないとまで思っている。だからこそ、今、この時代に私は「禅的実存主義」を主張したい。
それが貴方の生に、幾許かの光を与えることになれば…、と願っている。
禅とはなにか。
それは「不立文字(言葉は手段に過ぎない)」「教外別伝(心から心へ直接伝える)」「直指人心(自分の心を考えずに、ただ掴め)」「見性成仏(自身が仏に他ならないと悟る)」を四聖句とする仏教のひとつである。そして、それを言葉で知っていても意味がなく、「只管打座」…ただ座り、ただ悟るしかない激しく実践的な修法である。
そもそもの原始仏教の教えでは、人間の苦しみは、「生老病死」の四苦が原因であり、救われるためには、この世が苦に満ちていることを知り(苦諦)、その原因が世の無常と人間の執着にあることを知り(集諦)、無常の世を超え、執着を断つことが静かなる涅槃への道であると知り(滅諦)、正しい修行法によって到るべき(道諦)だとしている。
これら「四諦」の中でも、特に「集諦」に注目すべきであろう。すなわち苦しみの解釈がここで与えられている。数年前まで「癒し系」だの「ヒーリング」だのが流行していたようだが、癒す以上は「傷」が存在しているはずである。それを原始仏教では「世の無常と人間の執着」と定義しているのだ。
キリスト教では、人間自体が「原罪」という宿命を担って生きねばならない存在であり、現世よりも来世での「審判」こそが問題になってくる。ゆえに絶対者である神の意向に沿うよう「正しく」生きて、来世での幸福を約束されよう、というのが根本的な考えであるように思える。ゆえにニーチェから「ルサンチマン」だの「弱者道徳」だのと中傷されたのだが、弱者こそ傷を受けやすいのは事実であろう。簡単かつ乱暴にまとめれば「とにかく我慢しろ」がキリスト教である。
一方、儒教はどうだろうか? これは「仁(優しさ)」を内面的な徳、「礼(礼節)」を外面的な徳として重視した孔子を見ても判ることだが、それぞれの個人が過ごしやすい社会を共に作り上げようという考え方である。いわば秩序の思想である。だからこそ、儒家たちは為政者に近寄らざるを得なかったのだ。これは「社会をお互いが住みやすいものに変えていこう」とでも言えるだろう。
では、老子、荘子によって構築された老荘思想も見てみよう。まず、注意すべきは、中国に古来から伝わる「天」という絶対者の存在をうまく思想に取り込んだことである。これが道家では「天道」あるいは単に「道」とも称されるようになる。そして「道」とは法則の事である。もしくは運命とも言い換えてもいいだろう。一方、人間は「大道」の一部でありながら、「知恵」などというものによって汚れてしまっている。これがすべての苦しみの原因である。ゆえに「人間性」すなわち「社会性」を捨てよ、と道家は言うのである。それゆえ、社会的な価値を徹底的に転倒することを薦めつつ、現世的な人間であることを要求する。また、後に「道教」となり、不老不死との関わりで語られることも多いだろうが、老荘では基本的に生死も「道」の理だとして、徹底的にこだわらない。むしろ「生だ」「死だ」と言い始めた途端、「人知」に陥っているのである。その点からしても「道教」と「道家」は異なるものだということができよう。
では、問題の「仏教」だ。
原始仏教では、極端な話だが、「主体」を完全否定することで、苦しみから逃れようとする。大乗仏教で重要視される「空」こそ、我々の主観も、あらゆる事物も、本来的な存在などなく、すべてが「縁起」によって成り立っているという考えである。それは釈尊の言った「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」の三法印にこそ原点がある。
すなわち、有為転変の世の中にありながら、固執しようとする人間の「執着」が、矛盾を引き起こしている原因であり、その矛盾こそが「苦しみ」だという発想である。そして、世界を強引に「言葉」で秩序立てるのではなく、我々の止み難い妄執を断つことで、矛盾を解消しようというのだ。
最も信頼されるべきといわれた「個人」の源である「主観」までを否定することこそ、仏教における「癒し」である。
それでは、そこまでして我々、人間は何にならんとしているのだろう。
従来の仏教では死者を最終目標とする。が、禅では人間が生きながら「仏」となることを目的としているのである。すなわち「見性成仏」である。
「悉有仏性」という言葉がある。それはあらゆる人間、善悪、身分、財産関わらず、あらゆる人々が既に「仏」であるという思想。人間ばかりではない。禅では、近所の犬から、通りすがりのコオロギ、果てはトイレットペーパーまでに「仏性」を見る。そして、我々ははただ忘れているだけなのである。それを座禅によって、いや、座禅すら手段に過ぎない、あらゆる日常生活の中で、自分自身が仏であるという「事実」を見る。…いや、それ以上は座らなくては何も見えてこまい。ゆえに私は門の外から眺め遣るだけである。
ここで「仏」という言葉に、過剰に反応する方も出てくるだろう。その抹香臭さに閉口してしまい、耳を貸さない人物もいることだろう。だが、それこそ刻々と変化する世界を拒絶し、永遠普遍のイメージを「言葉」に与え、意味もなく信仰する宗教者の態度そのものではないのだろうか? 男性的な「処女崇拝」にも似た愚の骨頂だといえよう。そういった人物こそ、旧来の仏教観に染まっている、もしくは染まりやすい傾向がある、極めて抹香臭い人間ではないだろうか。
なぜなら、禅では究極的には「仏」は価値を含まない言葉である。
街で見かける飲んだくれオヤジや、女のケツしか追わない男、自意識過剰な馬鹿、陰口ばかりの未熟児なども、すべてが「仏」であり、釈尊と同じ価値を持つ存在であるのだ。どんなに厳しい修行をしようが、たどり着く先は、みな同じ地点なのである。
つまりは、それでいいのである。貴方は、それでいいのだ、ということだ。
あくまで「価値」なぞ、人間が共同体を営む上での決まりごとに過ぎない。だから、その共同体を離れたとき、「価値」だの「アイデンティティ」だのの共同幻想の中で始めて意味を持つ言葉に悩むのは、そもそも間違いなのである。
では、そこには何があるのだろうか? そこには、ただの肉塊としての「私」がいるばかりである。話したり、思考したりするときに使う言語こそには、たしかに私的言語など存在しないが、ここに意味を負わない「私」がいることも事実であろう。そして、その段階であれば、それでいいのである。それだけなのである。なにも一人のときにまで、「意味」など背負う必要はないのである。
その考え方に、どんな宗教的な視野の狭さが含まれているのだろうか? むしろ、冷静に自分の存在を見つめなければ、決して見出せない視点であろう。
それでも、「宗教的だ」と駄々を捏ね続ける人には、以下の言葉を与えよう。
すなわち『仏』とは、意味を有する『存在』の意である。事物の『意味』は、それぞれの関係性の網の目によって規定されている。そして、そういった関係性に裏打ちされる『事物という存在』だというのが、あらゆる『意味を持つ事物』における第一義だということ。その点で人間も王様も犬も猫もミジンコも糞も定規もアスファルトも差はない。もちろん『良い』も『悪い』もない。そこに差を生むのは、ただ、人間の価値観であり、言葉であるのだ。
こんなことを書いておきながら、こう書かれねば納得できない人物こそ、「科学的」という近代の大宗派の餌食だと私は思っている。くれぐれも私に勧誘活動なぞしないように…。