›2001年 10月 19日

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私が小説を辞めたわけ

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 私の小学時代からの夢、それは「小説家になること」だった。
 それから折を見ては駄文を書き綴り、様々な空想の世界に想いを広げた中学時代。また、文章修行として、文章論や小説論、その他ノウハウを蓄積することにも勢力的に取り組んでいった高校時代。その痕跡として、いまだに過去の『ダカーポ』(マガジンハウス社)の山が実家には残されている。
 その結果、私になにが残ったのだろうか?
 大学生になると、私の嗜好は「学術書/専門書」の方に移っていった。それと共に文体も、ともすれば「難解」と蔑まれてしまうものに変わっていく。これは「ダカーポ」的文体論からすれば「悪文」との謗りも免れ得ないものであろう。
 だが、始めからその萌芽はあったのである。私は小説にすら「わかりやすさ」は必要ないと思っていた。必要なのは流麗で趣深い文体である。
 いわば、その病が膏肓に陥ってしまったのが、現在の文体だともいえよう。
 ここでは、私の小説観を交えながら、現在、小説を書かなくなった理由まで語っていきたいと思っている。もちろん、たどり着く先は「禅的実存主義」であるのだが。

 そもそもの小説を書く作業過程を、皆さんは御存じであろうか?
 まず、全体のストーリー構成が重要になるのはいうまでもないだろう。登場人物の設定から発想を広げていく場合や、時間系列的な必然性から事件が構成される場合もあるだろう。だが、私が重視し愛用したのが、脚本などでも用いられる「箱書き法」である。これは描写したいシーン(箱)を並べ、それを組み合わせることで全体の構成を作り上げていく方法である。いわば、様々な素材を組み合わせ、生クリームでつなぎながらショートケーキを作る方法とでもいえよう。そうして、私は膨大な「箱」を作ってはストックし、あるいは眠っていた「箱」を組み合わせ、物語を紡いでいった。
 だが、そこでふと私は自問してしまった。こんなにショートケーキを作って、どうするんだと。
 私自身にとっては、そのショートケーキは味から食感まで、すでに知りつくしているものである。また、他人に読ませる場合も、どうせ「箱」をつなぎ合わせたものである。なぜ「箱」だけではいけないのだろうか? いや、せめてプロットでもいいのではないか? それが何故、「小説」という形態を取らねばならないのだ?
 こうして私は、小説という形態に対して不信感を抱き、そのまま筆を取らなくなっていった。
 もちろん、それに対する弁明は理解している。いや、むしろ中学時代から、それを理解し理想としていたともいえよう。
 すなわち、小説とは異界を現前させる魔術である、ということ。
 小説は「言葉」で「世界」を構成していく芸術である。その「世界」は、常識で考えても、いま現在、われわれが呼吸をしている世界とは異なる。まさに異界であるのだ。読者を異界に誘うためには、その「世界」に齟齬があってはならない。また、断続する意識に捉えられる世界と同じく、流麗に描写されねばならない。
 それこそ私の理想であったのだ。
 元々は「指輪物語」だの海外ファンタジーから小説を読み始めた私にとって、昭和も終わりに近づいた頃から、日本人の亜流ファンタジーが流行り始めたのには苦痛を感じずにはいられなかった。そもそも論理的におかしいのである! そういった違和感を表明すれば、必ず「ファンタジーなんだから、いいんだよ」との返事があった。誰も私が文学ジャンルとしての「ファンタジー」に固執しているということは気付かず、あっという間に日本におけるファンタジーはオタク族の玩具に成り果ててしまった。
 夢と幻想に満ちた文学だからこそ、その表現、世界描写には特に気を遣わねばならないのではないだろうか?
 そして、それは純文学も探偵小説も同じであろう。言葉で構成されるというのは、現実の我々が、この世界を把握する仕方でもあり、これこそが小説の一番の特徴だともいえるのである。
 言語外のルールで把握される部分が多い漫画は、禅的であり、それが日本で隆盛を誇るのも理解されうることである。だが、だからといって、日本人に言語一貫の小説が合わないというわけではない。言語外の表現は、当然、言語内に含まれうるのである。
 そこまで理解していながら、何故に私は小説を書かないのだろうか。いいかげんに「書け!」と激怒もしたくなるが、そこで私は最大の壁にぶつかってしまったのである。
 …小説を書く理由がわからない。
 そもそも我々は、この現実世界に生きて、それぞれが個性的かつ魅力的な世界を体験しているはずである。なのに、何故、わざわざ「異界」なんぞを体験する必要があるのだろうか?
 この世界で充分ではないか?
 愛憎もあり、危険にも満ちた現実世界である。小説を読まなくてもラブロマンスは転がっているし、行動さえすればスリルも味わえる。当然、努力さえすればヒーローにだってなれるのである。
 何故、別の世界を欲するのだろう?
 「努力もなく活動的な満足に浸りたい」という廃人的な甘えであっても、それはそれでドラマではないか? ゴロゴロと畳の上で転げ回りながら苦悩する姿も、またドラマである。
 そもそも、小説などで描かれるドラマ性なぞ、現実世界でのドラマを模倣したものに過ぎない。ただ極端に誇張しただけなのだ。
 すると、私自身が別の世界を提示する必要がわからなくなった。むしろ私にできるのは、いま、それぞれの個人が生きている世界が魅力的な物語に満ちていると示唆することだけではないのか?
 私は小説の世界を構築することから離れ、現在では、論説的文章を書くばかりである。
 その論述内容は…むろん言うまでもあるまい。

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