
海月庵の歴史
2001年
2001年2月22日、個人サイト「海月庵」はODNのアドレスの下、産声を上げた。
その記念すべきアドレスはhttp://mypage.odn.ne.jp/www/k/u/kurage/index.htmlであった。すべてはここから始まった。
ダイヤルアップのために契約したプロバイダーから、雀の涙ばかりに与えられたwebスペースを利用しての開設であったため、容量はまだしも、CGIどころかHTMLの変更すらも許されない状況であった。
当然、物足りなくなる。
翌月には、日記レンタルサービス「だいあり〜の〜と」と契約し、現在も続く日記「海月草紙」(現在は「断章/死にゆくものの記」にタイトル変更)の掲載を始め、チャットや、Teacup掲示板「髑髏の吐息」を設置し、徐々にODNのサービスからの脱却をはかるようになっていた。
そして、いよいよ「goo」に借りたwebスペースへと、コンテンツの移動が始まる。
5月を迎え、インドから帰ってきた管理人は、現行の掲示板「髑髏の囁き」をUICよりレンタル。同時にTeacup掲示板は後にメディア評論BBSとなる。しばらくは掲示板の併用がなされるものの、アイコン設置などの自由さが決め手となり、teacup掲示板は2003年1月まで封印されることとなってしまった。
一方、webコンテンツの充実を模索し、人気投票システムを使った「煉獄への免罪符」において、バンドの人気投票などの試みもなされた。
2001年10月になると、好奇心からレンタル掲示板&チャット「宙」にも食指を動かし、「海月宙」を設置した。防人には「一休」との名をつけ、近隣の方々と足繁く交流させてもらうものの、元来の不精ぶりが発症し、予告もなく休止してしまう。「宙」には塾講師をしていた管理人の生徒も訪れていたのだが、この廃止により、彼は管理人と連絡を取る手段の一切が失われることとなった。
その翌月、自分一人でできるだろうと、掲示板「髑髏の囁き」にて「一日一篇運動」開始する。
また、評論コンテンツとして当サイトの中心的存在であった「正法眼蔵」に、新たに禅的実存主義、小説論を追加した。
そして2001年最後となった12月、最愛の恋人を得た管理人は、メインページ「海月無門関」にカウンターを設置する。それまでの訪問者数は正確に把握しておらず、その結果、掲示板、日記、トップページと訪問者数が異なるサイトがここに成立した。これなども管理者の気紛れかつ無頓着な性質を表わしていると言えるだろう。
2002年
翌2002年1月、いきなりの更新を行ない、「正法眼蔵」に性の問題を論じた「トランスジェンダー論」、そして純粋哲学の領域から「意志論」を追加する。
続けて2月には「正法眼蔵」に再び純粋哲学の難問、「わたし」という問題を軽く論じてみた「自己認識論」を追加。
怒濤の更新は3月になっても続き、アート系コンテンツをまとめた「行雲流水」を開設。写真や詩歌、絵画なども掲載する。空いたスペースでは国連へのリンクも勝手に行ない、世界平和への想いを見事にアピールすることとなった。
しかし、慣れ親しんだHPサービス「goo」だったが、「goo」の経営上の事情により「HOOPS」へサービスを完全移行することとなり、アドレスも変更されることとなった。ついでに管理者も遅咲きの再受験勉強のため、愛した墨田区錦糸町を離れ、実家へと引っ越していった。
そんなドタバタ劇から1ヶ月が過ぎた2002年5月、かの有名な「CGIBOY」よりアクセス解析をレンタル。さらにApple社によるMacユーザー専用のwebサービス「iDisk」も使用し、「海月庵・別館」を意味もなく設置。ここだけの話、MP3音源などを置いていたが、わずか数カ月で有料化され、はかなくも消え去ることとなった。
さらにアート系コンテンツ「行雲流水」には、自作の壁紙を公開するスペースを設け、さらにサイト開設から1年も過ぎたということもあり、管理者自身の記憶を整理する意味でも「更新履歴」(当項)を追加することになる。ありきたりの個人サイトのようなコンテンツの登場に、偏屈者の管理者は複雑な想いであったことは想像に難くないだろう。
また、音楽コンテンツをまとめた「海月声明」やメニュー、「正法眼蔵」などのデザインを変更。さらにベース講座的な記事も追加し、「見やすく実用的なサイト」に向けて、少しずつ動き始めた。
6月、java script実験のために作成したHTMLを発展させ、馬鹿画像を掲載するとして設置する。また、新作壁紙としてHOLE、禅風、Mac風の3点を追加することとなった。
翌月になると「正法眼蔵」において執筆を続けていた哲学史コンテンツに、過去の哲学者の画像を追加する。自身の哲学史学習のために設置したものの、人間一人全人生を通してなされた思考を、ほんの数行にまとめるという作業に絶望すら感じてしまう。それでも管理者はライフワークの覚悟を決めて、少しずつ少しずつ書き進めていくであろう。
地獄のように暑かった2002年の8月になると、ヒューズのすっ飛んだ管理人が「正法眼蔵」に大学時代の卒業論文を掲載してしまう。ばかりか、頭に血が上りすぎて「行雲流水」に小説までも掲載。他にも彼女との草津旅行を綴った旅行記コンテンツなどを追加する始末。
また情報の重要さを知る管理人が、メインページにInfoseekのニュースティッカーを採用する。
10月になり、webスペースを借りていた「HOOPS」が合併されることになり、またもやアドレス変更されることとなった。今度のレンタル先は 「Infoseek」ということで、度重なる移転に管理者はアドレスを記憶する努力をすっかり放棄した。また、隠しページで展開していた「馬鹿画像」も更新され、さらに「更新履歴」(当頁)のデザインも変更される。他にはリンク追加&修正も行なわれ、メニューページには可愛いキャラクターが管理人にふさわしいとして「Harbot」が採用される。
2003年を迎え、就職活動のため東京都国分寺市に移動した管理人の手によって、就職活動と人間関係でのストレスを癒すかのように、webページの斬新な改革が計画される。管理人が「海月庵」と同名でありながら漫画を扱う個人サイトを発見したことが原因との説もあるが、それはさておき、それまでの個人サイトであった「海月庵」と、大学時代に発行していたミニコミ新聞「もののけの輪」とを共有する「海月舎」というメタレベルのサイトを構想。
歴史は海月舎へと引き継がれることになる。
雨続きの冷夏という印象を残した8月には、かねてより念願であった某スクリプトによるを悪戦苦闘の末に設置することになる。なお、改装計画は、管理人が国分寺から1ヵ月で遁走し、同棲しながらフリーター生活を始めることになったために、多忙さと貧乏さと喧嘩の日々に追われ、あいかわらず頓挫したままである。
海月舎の歴史
2003年
新たな地に、愛するパートナーと生活し始めてから早数ヶ月が過ぎようとしていた。そんな6月、アルバイト先の飲み会があり、そこで撮影した写真をアップロードするためにトクトクからwebスペースをレンタルする。ポップアップとバナー広告の多さなどの堅苦しさにギブアップして、そのまま本登録もせずに放置(笑)。誰かあのサイトを消してくれませんか?(;´Д`)
その後、サイトの存在を忘れたようにバイトと喧嘩に明け暮れたまま月日が過ぎて、あっという間に12月になり、またもバイトの飲み会写真をアップロードするために、今度はAAA!CAFEの無料スペースをレンタルする。たまたまRubyが組み込まれていたため、興味半分でtDiaryを設置してみることになる。
2004年
そのまま1月の大半を費やすことになったtDiaryだったが、細かい部分で不具合が生じ、いっそのこと…と、今度はMovableTypeに手を出すことになる。それまで構想していた新しいメタレベルのサイト「海月舎」の構想がすべて実現できることに気がつき、移転を決意する。
2月になると、XREA.COMの新規登録募集にあわせて、MovableTypeによる海月舎移転。
以後は、Weblogツールを用いての更新となる。
2005年
私生活では結婚し、子供も誕生するといった怒濤の変化を迎えていたが、ネット上では特に変化もなく、いつもどおりに淡々と更新を繰り返していた。
だが、3月26日からGoogle検索から排除されていたことに数ヶ月後、やっと気がつくに至り、重い腰を上げて改装に乗り出すことになった。それまでも3つのサーバに分散していた「海月庵」「海月舎」の存在を気にはしていたのだが、日々の雑事に追われ、なおざりにしていたのだ。
そして6月、まずは自分の記事へのリンク集となる「踊る黒猫亭」を設置することになる。それと同時に、長年愛用してきたレンタル掲示板「髑髏の囁き」をあらゆるリンクから切り離し、事実上、廃止することにした。
また、他にも自分で撮影した写真を掲載する場所として「海月圖」をレンタルして設置。画像を分散させることでサーバーの容量を節約する目的もある。
このことにより、いよいよ論述系サイト「海月舎」と個人サイト「海月庵」を統括する動きに拍車がかかったといえるだろう。この「踊る黒猫亭」こそが、包括的なサイト「海月舎」といえなくもないのだ。