›2004年 2月 11日

[ 範疇 : おっさんの知恵袋 ]
[ 範疇 : 哲学 ]

カール・マルクス

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 今日から新社会人として研修に参加した同僚から届いたメールには、こう書かれていた。
 「マルクスのいう労働の阻害みたいな環境でした」
 …え? なにそれっ?(;´Д`)
 
 そういえば私のマルクスの知識は資本論程度でしかなく、政治思想家としてのマルクス主義もいまいち理解していないし、経済学者としてのマルクスのこともよく知らないわけで、いつの日にか勉強しないとなぁと思っていたわけであります。
 良い機会なので、早速調べてみました。

 なお、オッサンには忌み嫌われ、学生には胡散臭い目つきで見られるマルクス。
 でも、果たして、ちゃんと嫌うほどマルクスのことを知っているんでしょうか?
 共産主義だの社会主義だのの政治思想から先入観で切り捨てるのではなく、嫌うならば、きちんと理解してから批判して欲しいものです。少なくとも歴史的に偉大な思想家のひとりではあると思いますので。

カール・マルクス(Karl Heinrich Marx 1818-1883)
 
【キーワードで理解するマルクス】
 ・唯物論観念論と対立するもので、世界は永遠不変な物質によって構成され、人間の意識なども物質が生み出す副次的なものでしかないという現代科学では当然の前提とされている世界観。伝統的には知覚において人間が物質を受動的に受け入れるものとされていたが、マルクスは、人間と物質、主体と客体との相互作用によって知覚が成立するというヘーゲル的な弁証法的唯物論を唱えた。

 ・唯物史観:人間を規定するのは物質との関係だと考え、人間の政治、経済、文化、思想、宗教、芸術などは、それぞれの時代の物質の生産諸方式、分配諸方式の結果であるとする歴史観。人間は一見すると自由な意思を持っているように見えて、実は自分の意思とは独立した社会構造の中での、生産のあり方によって意識が決定されているとした。

 ・フォイエルバッハに関するテーゼ:第11テーゼ「哲学者たちは世界を単にさまざまに解釈しただけである。問題なのは世界を変えることなのである。」

 ・商品の二重価値:商品は実用に適しているかどうかという使用価値とともに、他の商品と交換できるかという(交換)価値を有するが、資本主義の始まり以降、使用価値よりも(交換)価値の方が重視されるようになってきている。この(交換)価値を定めるものは、その生産において費やされた労働時間である。ただし、その労働時間は実際にかかった時間ではなく、その生産物が一般に必要とし、社会的に標準とされている抽象的な労働時間である。

 ・物神崇拝(フェティシズム):商品の(交換)価値は、本来は商品に対象化された労働の社会的性格によって商品の一定量が他の商品の一定量と交換されることで生じるはずだったのだが、基準となるような一般的等価物の登場とともに商品交換関係が一般化していくと、交換という原則が社会的に隠蔽されるようになっていく。その結果、商品の(交換)価値は商品が生まれながらに持っている属性として誤解されるようになる。これがフェティシズムである。一般的等価物としての貨幣自体に価値が属しているように考えることを、さらに貨幣の物神崇拝と呼ぶ。

 ・物象化:そもそも人々の社会的な関係の表現であった生産物の(交換)価値が、交換関係が発展すればするほど独立化していき、人間は忘れ去られ、「商品と商品」「商品と貨幣」が社会的結びつきの本質とみなされるようになる。それが「生産関係の物象化」である。そのような状況においては、人々は「商品所有者」あるいは「貨幣所有者」として登場ばかりで、もろもろの人格はただ商品の代表者として存在するだけである。このように人間相互の関係が、商品と商品の関係に置き換えられてしまうことを「物象の人格化」という。

 ・労働者階級の搾取:商品の(交換)価値とは、その商品にを生産するのに平均的に要求される労働時間であり、資本主義社会においては労働力も商品の一種とされる。すなわち給料と考えてもらってもよい。その労働者の給料と等しいだけの商品を生産するのに必要な労働を「必要労働」と呼ぶが、雇用主である資本家は利潤を得るために、必要労働以上の剰余労働を労働者に強いることとなる。つまり労働者は自分の給料以上の労働を、常に強いられていることとなる。

 ・労働の疎外:(1)労働生産物からの労働者の疎外。自ら労働して生産した商品が資本家に奪われてしまい、労働者は商品と疎遠となり、逆に隷属することとなる。(2)労働過程における疎外。労働が労働生産物との疎外を意味するならば、労働者にとって労働は苦痛であり外的なものとなる。労働は労働者の成長よりは、肉体的消耗と精神的頽廃をもたらすことになる。(3)類からの疎外。人間は類的存在、すなわち自分の生命活動を意欲や意識の対象として、そこに自由を感じるような存在であるはずなのに、労働の疎外はそのような本質的な生活すらも単に自己の肉体的生存のための手段としてしまい、人間本質を疎外する結果となっている。(4)人間の人間からの疎外。人間が相互に他の手段となり、疎遠なものとして対立的に存在せざるをえなくなる。

 革命だとか政治的な思想については省略しました。
 お好きな人は各自でGoogle先生などに聞いてみてください(笑)。
 より知識を深めたい人は、それぞれに貼ってあるリンクを辿るだけでも勉強になると思います。
 
【追記】
 いろいろ検索していて、こんな一文が引っかかってきました
 

カントが『人倫の形而上学』で提示したヌーメノン人間とフェノメノン人間の二重性の構造と同一のものであり、

 …え? なにそれっ?(;´Д`)…次はカント…ですかぁ…。
 と、思ったら、あっさり解決。それなら知ってる(笑)。
 
確かにカントの先天主義・絶対主義はラッセルにはない。しかし、カントのそれはどこまでもヌーメノン(松下注:noumenon 物自体)とフェノメノン(松下注:phenomenon  現象界)の分離という枠内において成立している。この分離が理論的にいかに不斉合であるとしても、実際上、それはカントの認識論と実践論に1つの根本的な制限を課しており…
助かった。(;´Д`)え? でもフェノメノン人間? え?

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