
海外旅行専門誌「AB-ROAD」にコラムを連載する「おかまバックパッカー」のことを、あなたは御存知だろうか? その名は「まりも」ちゃん。私と同い年の、美形の青年である。
先日、彼女(?)と海外で出会った方に連れられ、彼女(…以下、「彼女」で統一する)の勤務する新宿二丁目は「ミスターいちご」という店に行ってきた。いわゆる「ゲイバー」なのであろう。
まりもちゃん自身は、単身イラクに乗り込んでしまうくらい行動的な人物で、経験も豊富。それこそ人間としての魅力に満ちた人物である。また、服装も外見も、そこらへんの男よりは数段格上の「美形」でこそあるものの、普通ではある。なにが彼女と私を区別するのだろうか?
おそらくは、こういう答えが返ってくるだろう。
「海月はノンケ。まりもちゃんはゲイ」
つまりは性指向(Sexual Orientation)の違いということであろう。「ノンケ」とは異性愛者(HeteroSexual)を指し、「ゲイ」とは男性を指向する場合の同性愛者(HomoSexual)を指す言葉である。
だが、はたして本当に私は「異性愛者」なのだろうか? そして、あなたも本当に「異性愛者」なのだろうか?
この場合、なにを持って「同性/異性」と決めているか、まず、そこに問題がある。
まず、私が愛している、かの人物は「女性」なのだろうか? そして、私自身も、はたして本当に「男性」なのだろうか? 私は彼女が「女性」だから愛しているのか? 私の愛が、すでに性別によって決定されているからこそ、彼女を愛し始めたのであろうか?
そして、あなたの愛も…?
まず、「性」というときに、二種類の「性」があることを言っておかねばならない。
ひとつは生物学的性(Sex)であり、これは性染色体や外性器・内性器、性腺などによって決定されるものである。
もうひとつが文化的(社会的)性(Gender)であり、「男らしさ/女らしさ」といった性役割(Gender Role)や、自身の文化的性に対する自己認識である性自認(Gender Identity)を含むものとして考えられている。
シモーヌ・ド・ボーヴォワールの有名な言葉、「人は女に生まれない。女になるのだ」も、このふたつの「性」の分裂を語ったものとして理解することができるだろう。
この生物学的性と文化的性の関連性については、フェミニズムによって、さまざまなことが言われて来た。
たとえば、肉体的に女の子だったから、スカートを買い与えられ、赤いランドセルを背負わされる。「赤い」ということに含まれる社会的な「女らしさ」が周囲から期待され、自分自身にも「女である」という意味づけを与えることになる。
文化的性は習慣であり、役柄でもある以上、なんらかの学習が行われることは想像に難くない。そして、その選択基準として生物学的性が用いられることも比較的容易に想像できるだろう。
だが、自ら選択して学習されない場合、一転して、文化的性は規範と化してしまう。そして、その場合、純粋な生物学的性すらも「性差」の呪縛として立ちはだかることになるのである。
たとえば、肉体として発達した乳房があった場合、生物学的性の見解では「ただ、そうなっている」というだけなのだが、文化的性は「女性に備わった授乳に用いる器官」と意味づけ、そのように用いるべきだと制約を施す。ばかりか、その乳房に性的な意味をも与えてしまうのだ。
その呪縛から逃れるのは容易ではないだろう。むしろ逃れる必要すらないと考えている人すら多いことだと思う。
だが、そういった自己の性自認について疑問を持ってしまった人々がいる。それが精神医学では「性同一性障害(Gender Identity Disorder)」といわれてしまう、性の越境者「トランス(T'S)」である。
余談になるが、生物学的性と勘違いされやすいのが「動物の本能」という考えである。
いわく「肉体的に男性であったならば、女性を愛するのが自然だ」という素朴な意見に代表されるものである。そして「乳房に反応するのは性欲なんだから文化的な性ではない」「生殖行為に到らない愛は、間違っている」との信念も聞くこともあるだろう。
だが、動物としての人間を基準に据えるのならば、「生殖」だの「愛」だの、特定の意味を帯びた行為はなし得ないと見るしかない。動物の動物的行動は、生得的行動であり、「意味のある」行動は、それこそ人間の文化によって意味が付与されるものだからである。
勝手に動物たちの行動に意味を与え、それを再び人間に持ち込み、行動規範とするのは、しごく単純な間違いだといわざるをえない。まさに単純な意見の為せる業である。
本稿の論旨は、ただ「性」の問題に関わってくるものであり、たとえホルモン等の影響下にあったとしても、性差的な意味が付与された場合、ただちに文化的性の働きがあったと定義している。
極端に言ってしまえば、男性生殖器を備え、ヒゲも生え、筋骨隆々の人物であったとしても、彼の住む社会において、それを「女である」と範疇化するような場合、文化的性は「女性」である。
トランス(T'S)は、大きく3つに分けることができる。
性的役割を転換する「トランスジェンダー(TG)」、生物学的を転換する「トランスセクシュアル(TS)」、そして異性の装身具を身につける「トランスヴェスタイト(TV)、クロスドレッサー(CD)」ということになる。
また、それぞれの中で「男性から女性へ(MTF)」なのか、「女性から男性へ(FTM)」という区別も用いられ、それ以外に性自認が中性、もしくは無性の人々もトランスに含まれている。
この中でもトランスジェンダーに注目してみると、彼らは、自身の性自認と性役割へ違和感を感じているということになる。だが、これは、そもそも「文化的性」として生まれた時から刷り込まれてきたものではなかったのか?
この分裂は、性役割が生物学的性に引きずられやすいのに対し、性自認は比較的、選択が為されうるということを示している。ここから読み取れるのは、まず、社会的規範が個人の内面へ及ぼす影響力が低下しているということ。そして、社会的規範が拘束するのは、あくまでも「社会的な場面における、ある特定の行為」であって、「すべての行為」ではないということ、さらには心身二元論の存在も読み取ることができるだろう。
性自認は、性役割行動を選択するきっかけになる。
ゆえに「女」だと自己認識したものは「男」を愛するべきだと性役割行動を行う。「規範」という表現に厳密に従うのならば、「女を愛すべきではない」としてパートナーを求めることになる。
そして「オスメス型」のロマンティック・ラヴ・イデオロギーに単純に染まっていく。
彼らが選び出したパートナーは、まずは「異性」だったから選ばれたのである。もしも同性だったならば、果たして関係は築かれたであろうか?
残念ながら、まずは相手の性別を認識してから、それに相応しい役割を相手に与える場合が多く見受けられる。そして「女であるべき」役割が遂行できない相手とは、その時点で関係が終わってしまう例も良く見られる。
個人的には貧しい社会だけで生きているな、との印象は拭えない。
自身を「性」で区別するだけで、すでに社会は狭くなっているのである。そして、そういった社会的性が絶対的ではないことは、いままで見てきた通りであろう。
まずは自分は人間であるということ、その認識から他者への自由な意味づけも始まる。
自分が社会的な性役割に洗脳されていることを認識した上で、異性だけをパートナーに選ぶのは「自身」の行為であるが、なんの疑問もなく異性だけをパートナーにするのは「性」の行為である。
トランスは自分を呪縛する性役割から脱するものであるのに、結局は対極の「性」を選択してしまっているという批判もジェンダーフリー論者によってなされているが、これも自分で選択した自分への意味づけという場合であるならば、ジェンダーに縛られているわけではない。今晩のおかずを選ぶように、自分を飾る意味をも選択しているといえよう。
そして、そういった「飾りとしてのジェンダー」は、自身のアイデンティティになりうるものであり、決して「縛る」ものではない。さらには選択されるものである以上、「縛られる」こともない。
もちろん、それは「性」ばかりに限った話ではない。
性だ、国籍だ、民族だ…。言葉によって位置づけられていく自分の位置。
どうして人類の何千年に渡る歴史を負う必要があるのだ。
われわれは、たかだか100年も生きられない一個人でしかない。
言葉の磔刑から逃れよう。
そして、深々と刺さった杭を抜き、自由になった手で、その杭をもてあそぼうではないか。
【さらに勉強したい方へ】
Trans-Net Japan(TSとTGを支える人々の会)
宮崎留美子 のホームページ:TGとジェンダーフリー
Makiko T's Website of Gender Studies