›2002年 2月 09日

[ 範疇 : 哲学 ]

我、それを為すべし?

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 たとえば街で、あるいはドラマのワンシーンで、人は往々にして動機を問われる。
 「なぜ、そのようなことをしたのか?」
 それは言い換えれば「彼はどのような意志を持って、その行為を為したのか?」という問いである。
 人間の行為には意志が当然のようにつきまとう。
 神の従属物という軛を逃れ、主体的な自己を確立してからというもの、自由の刑に処せられた人間たちは、自らの行為に全責任を負うことになった。その責任の名が「意志」である。
 だが、フロイトの「無意識」を引っ張り出すまでもなく、人間の全行為が意志の名の下に行われているなど、無批判に信じ込むわけにはいかない。

 たとえば駅へ向かう足取りのうち、自分が管理している足の運びがいかほどあったというのだろう。あるいは楽器を演奏する中で、出してしまった予想外の音は、なぜ「間違え」と呼ばれるのだろうか。
 「意志」の問題はそればかりではない。
 自ら意志して行ったとされる行為でも、一体何を意志しているのか具体的に理解することができるだろうか?
 「右手を挙げる」と意志するということは、どうすることなのか? 僧帽筋と三角筋を縮小させることだろうか? たとえば「右手を挙げる」と呪文のように唱えたとしても、実際に動かさなければ右手は上がらないだろう。では、誰が数ある筋肉を縮小させたのか? その行動を引き起こした「意志」とはなんなのであろうか?
 あるいは「新宿へ行こう」と意志する場合、なにをどのようにすることを意志しているのだろう?
 そもそも「意志する」とは、どういったことを指しているのだろうか?
 考えれば考えるほど、意味の深淵へと落ち込んでいくような気がする。

 本稿は「哲学交換日誌」という現在では存在しないメーリングリストで議論されたものを、私からの回答という形でまとめたものである。よって、結論に到るまでの紆余曲折は多くの参加者からの刺激に因っている。改めて彼らに感謝を述べると共に、本論によって新たなる議論が生まれることを切に願って止まない。

 人間の行為をひとつ思い浮かべてもらいたい。
 たとえば、人指し指を動かすことでもいい。
 その行為は、さまざまな文脈で、さまざまな意味を帯びる行為となることができるだろう。
 だが、頬を掻く時と、ベースを弾く時では、同じ動きを見せたとしても、同じように意志していたわけではない。
 確かに、弦を弾く時は、腕の浅指屈筋を動かしてもいるし、それによって人指し指も動かしてはいる。だが、ベーシストの誰一人として浅指屈筋を動かすことを意識している人間はいないのではないかと思う。彼らは、いきなり「ベースを弾く」ことを意志しているのである。
 一方、ベースも弾いたこともないような初心者の場合は、どうであろうか。
 彼らには「ベースを弾く」という行為の型は存在していない。とりあえず「指を動かして弦を弾く」という理解があるばかりである。よって、彼らがベースを弾く場合、「人指し指を動かす」ことを意志しているといえるのである。
 つまり、人間は自分の行う行為を、ある程度ひとまとまりになった「行動の型」で区切り、その型を行っているといえるのである。その「行動の型」をロラン・バルトの用語を借りて、「フィギュール」と呼ぶことにしよう。

 人間の行為は、「行為の型(フィギュール)」単位で意志されている。

 たとえば新宿に出かける場合、フィギュールは「新宿に行く」ということになる。だが、当然のように新宿に行くためには身体を動かさなければならない。そればかりか「電車に乗る」だの「車窓を眺める」だの、さまざまなフィギュールも介入してくる。
 また、常識的には身体活動を基礎行為とする場合が多く、フィギュールの最小単位としては「指を動かす」「足を動かす」などの身体行為を挙げることができる。
 これらのことを踏まえると、人間活動のフィギュールは、さらにいくつかのフィギュールに分析することができる。
 ゆえに「タクシーを停める」と意志することは、「腕を挙げる」フィギュールや、「僧帽筋を動かす」フィギュールも共存しているということができるだろう。
 だが、人間は行為をパーツの組み合わせで行っているわけではない。
 チャーハンを作る時も、野菜を炒めることとご飯を炒めること、調味料を入れること、卵を割って…、などの諸行為を、それぞれ単独の作戦として行ってはいない。それらの行為は、あくまで「チャーハンを作る」というオペレーションの中の要素にすぎないのである。
 それゆえ本論ではフィギュールを細かく要素まで分析する立場はとらない。あくまで人間が意志しているのは最初に思い付かれたフィギュールなのである。
 そして、その「最初に思い付かれたフィギュール」こそが、欲求の対象に他ならない。
 分析された要素的フィギュールは、この「欲求の対象になる」という資格を持っていない。ゆえに欲求を基準に、意志の存在を定義することができるのである。
 たとえば、誰もタクシーを停める時に「三角筋を動かしたいっ!」と欲求はしないであろう。意志は、その場合、「タクシーを停める」ことにあるということになる。
 すなわち「意志」とは、欲求されたフィギュールを行う意識として設定される。そして、そのフィギュールこそが「意図」と呼ばれるものである。
 たとえば「養老の滝で宴会をしたい!」などと、人間の生活において無数にある外的刺激の中から、なにかの状態を求めるようになる。これが「欲求」であり、それを明言化し、ひとつの行為の型(フィギュール)に変換すると「養老の滝で宴会をする」という「意図」になる。そして、その「意図」を実現しようとする意識として「養老の滝で宴会をしよう」という「意志」が見い出されるのである。
 微妙な表現をしてきたが、以上のように、人間の行動に伴う「意志」というものは、実は事後的に意味づけられる「物語」でしかない。それは「腕を挙げよう」と唱えるように、行為を伴わない「意志」だけを抽出することが不可能なことからも想像されるだろう。「意志」は、あくまで行為に付属されるレッテル(タグ)の働きしかしていないのである。
 わかりやすい例を挙げれば、ストープに足を近づけ過ぎて「あちっ」となる、あの「条件反射」である。
 また、「新宿に行こう」といって総武線に乗るエピソードでも、「意志」は決して心的動力のような働きはしていない。あくまで「意志」といわれるものは、人間の行為を言語化する時に、わかりやすくするために付けられた目印なのである。一連の行為を言語によって「新宿へ行く」というフィギュールに区切り、計画案を立てたとしても、それによって身体が動き始めるわけではあるまい。「意志」とは、言語によって構成されている「自分」が行為を理解するための覚え書きに過ぎないのである。
 さらに、人間の言語的な「物語」に深く関わってくるため、「意志」に論理的な矛盾は許されない。
 「新宿に行こう」と意志しておきながら三軒茶屋にいる場合、整合性を復活させる「言い訳」が必要になる。
 逆にいえば整合的ではない「意志」は、「意図が不明」と切り捨てられることになるのである。
 人を殺した場合も「太陽のせい」と言うのは不条理であって、徹底的に、被害者との関係や薬物を使用した可能性、日常の人間性、愛読書の傾向などが探られ、整合的な「動機」を導きだそうとされる。
 だが、どんなに上手く組み立てられた「動機」であっても、せいぜい「意志」を生む程度でしかないことを忘れてはならないだろう。私ですらも幾度となく「リズムをキープして演奏しよう」と意志したのだが、行為には一度たりとも結びついていないのである。

 最後に残ったのは、「それでは、本当に身体を動かしている契機は何か?」という問いであろう。
 しかし、私に言えるのは「言語外の何か」だということだけである。
 ただ、論理的な判断として、選択された「意志」は、少なからぬ影響を及ぼしていることは確かだと思う。それは、実際に行為をする中で、意志と行為の間には、せいぜい言葉で「言い訳」できる範囲のズレしか生じていないことからも推測されるのではないだろうか?
 最後の最後で曖昧な話になってしまったが、ウィトゲンシュタインの警句を胸に筆を置きたいと思う。
 「語りえないことについては、沈黙しなければならない。」

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