
ソフィー・アムンセンに届いた一通の手紙。
「あなたはだれ?」
その問いに、あなたは何と答えるだろうか?
名前なんか住民台帳に登録された記号でしかない。
履歴書に記入された文字も、住民票の記載も、趣味も、あくまで記号の羅列でしかない。
もしも、同じ記号を羅列したならば、この「私」が確実に表わされるのか? …そんなことはない。
唯一無二の「私」。
古今東西、さまざまな人々が頭を悩ませてきた「私」の問題だが、ここでは純哲学的なアプローチは他に譲り、人間関係の面にのみ限定して論じていきたいと考えている。
なお、哲学的な「私」への議論は、永井均氏の一連の著作を、とりあえずは読むべきだということを付け加えておこう。
さて、モニターを前にして、この文章を読んでいるあなたは、一体、どんな人物なのだろう?
職業、出身、性別、性格、経歴…。
自己紹介の場面で必ずお目にかかる「常套句」ではある。
だが、とりあえず、そんなもので人間が表現されるとは私は考えてはいない。
唯一、重要なのは「私にとって、どのような人物なのか?」である。
社会と隔離されていても存在する、哲学的な「私」の存在には、意味・記号は無関係であり、その肉体に宿る「私」の特殊性については、認めるだけで語ることはできない。つまり、一人でいる時の「私」の意味とは、他人との関係の網の目によって生み出された集積物の残滓でしかない。
属性として存在に立ち表れてくる「私」の意味は、他者との関係によって初めて生まれるものである。
誰もいない空間での「本来の私」「本当の私」とは、誤謬推理によって考え出された妄想に過ぎないのである。
「本当の私って、理解されない…」と愚痴るくらいなら、その「私」を表現するべきであろう。表現されないものは決して存在しないのが意味空間である。その努力を怠って、他人に「理解すべし」というのは傲慢もいいところである。
この意味論において、確固たる「自己」と仮面としての「ペルソナ」という構造は、完全に否定される。
そして、たとえば自分の姿を偽り、見栄や嘘で塗り固めた仮面をかぶった場合も同様に否定される。
それは関係性のなかで規定される自己ではない。
私の刺激によらず、勝手に自己像を定めているからである。
あくまで「役柄」でしかない。そして、少なくとも私は、そんな意味記号とは人間関係が築けるとは考えてもいない。
すでに唯一無二の存在としての「私」があるではないか。
「私、私…」と連呼し、「私」の意味を弄ぶこと自体、「私」にとって失礼なことである。
無駄な「私」の一切を排除しよう。
あなたは、すでにあなたでしかないのだから。