
私の卒業論文は「恋愛対象はいかなる存在か」というテーマで書かれた。
慈愛とムードに満ちた、恋愛ドラマも裸足で逃げ出すかのようなタイトルになったのではないかと自負している。が、蓋を開けてみれば単なる専門的な他者論に過ぎない。そして、あえて、それを狙ったのである。
私は「恋愛談義」を極端なまでに嫌悪している。
そのタイトルも、嫌悪のあまりに、タイトルだけで浅薄に判断した愚か者が手を伸ばし、その技術的な内容に辟易することを狙って付けられたものだ。そして私はそれをせせら笑う。その浅薄で考えのない恋愛観に対して、哄笑を浴びせたいと熱望している。
なぜにそこまで私は「恋愛談義」を嫌悪し続けるのだろうか?
それは、私の唯一無二の経験が、ただの無関係な他人に普遍的な言語で焼き直され、「あー、わかるぅ」と一般論に還元されてしまうことに対する、精一杯の抵抗なのかもしれない。そういった「一般化」とは優しさ以下の野次馬根性でしかない。あの時の経験は、まさに私にしか経験されていないものなのだから。
それに、たとえ同情や共感を示されても嫌気が増し、その人物の浅薄さが鼻につくばかりである。ばかりか、私の神秘的で絶対的な経験が、ただ、その人物の暇つぶしになっているような錯覚すら覚えてしまうのだ。
私の過去の経験は、誰にも犯すことのできない永久不滅の経験である。
だからこそ、無神経で厚顔無恥で、あらゆる経験が共有されることが当然だと願う、夢見がちで迷惑なだけの唾棄すべき人種たちが、鈍い頭を駆使して興味本位だけで想像し、おしゃべりな口から言葉を漏らし始める前に、私は自分自身の口から「過去の想い」について語りたいと思う。そしてそれが「最後の言葉」である。あとは、ただ「沈黙」を要求するばかりだ。
恋愛関係とはなんだろう? 私の卒論では、それを他者関係が端的に表れるものと定義した。それを展開して極端に言えば、友人関係といわれるものも「制限された恋愛関係」だという主張になる。同性の場合は、性別的固定観念が制限になるだろうし、異性であっても各自の想いによって種々の制限が施され、恋愛感情の発露を抑制しているという論理である。ゆえに、通常の男女の場合、その制限を意識しない限り、簡単にその境界を越えてしまうことはあり得るだろうし、多くの事例を観察した結果、たやすく身近な異性に揺らいでしまう人物が多いと判断されている。
だが、結果としては異性間恋愛関係が多いとはいえ、人は始めから「異性」を求めているのではなく、親身になって自己に対峙してくれる「他者」を求めているのである。
ただ、自己を閉じ込める檻である肉体の門を開く相手としては、どうしても通念として異性を求めてしまいがちになる。かつ、自己を解放するには、身体を帯びたものの宿命として、肉体の檻に関わる行為が絶対的に必要になってくる。だから、多くの人間はプラトンの言うように「分離された自己の片割れとしての異性」を求めることになるのだ。
よく「海月ゲイ説」という噂が流布するのだが、残念ながら私も社会的な通念に支配されるものである。むしろ、極端に異性に対して鋭敏だからこそ、女性性に過剰反応を示し、それゆえ男女性を均等に扱うよう(あるいは男性への極端な親近を示すよう)なっていたのであろう。しかし、あえていうならば私は肉体的性としての「女性」は芸術的に美しいと思うし、社会的性としての「女性」にも好感を持っている。また、柔道部を経て、男子高校生活を経過した私だからこその、いわば短絡的思考しか行えない幼稚で未熟な男性性に対する嫌悪への反動ともいえるのであろう。
私は多くの男性諸氏を厚顔無恥かつ無能、幼稚の極みの汚物だと思っていないこともない。また、要はエゴさえ満たしてやれば御せるのだから、こんなにわかりやすい人種もそうそうないと思っている。そして、当然のように、そんな人物は「私の他者」たるには資格不足であるのだ。
私にとっての恋愛対象は「他者」であるべきである。そして、彼女にとっての私も「他者」であるべきだと考えている。
刺激もなく、自己の変革もない関係を恋愛関係といっていいのだろうか?
ただ優しくされたいのならば宗教にでもすがればいい。ただ甘えたいのなら親にでも泣きつけばいい。ただ偉そうにしたいなら教師にでもなればいい。ただ優しくしたいのならペットでも飼えばいい。そして、ただ肉欲を満たしたいのならば自慰でもすればいいのである。
お互いが争いもなく、調和し、穏やかに過ごしていく関係など、私には寝ぼけたぬるま湯の関係である。それこそ「友人関係」に求めるべきものではないだろうか? 互いに異なるものこそが、なんらかの条件で恋愛関係に陥り、衝突しながらも互いの存在を際立たせていくのである。これこそが自己の存在を痛感させる秘訣であろう。自己を振り返る必要のない恋愛など、経験する価値すらもない。
むろん事実として、そういった衝突する恋愛関係は長続きもしないだろう。
だが、恋愛関係の意義は、長続きさせることにあるのだろうか? 「結婚」という旧態依然の社会機構に身を捧げる為に策略的に行われる「恋愛」を除いては、そのような恋愛は本末転倒なのではないだろうか? 恋愛関係とは、なんらかの要素が互いを引き合い、結び付けたものである。その力が弱まってもなお、その人物と関係を続ける方が愚かだと私には思えてならない。長く一緒にいて培えるのは、ただ「連帯感」にすぎず、あるいは生物学的な肉体の個体差の把握に過ぎず、そのようなものは、あの情熱的な「愛」とは無縁のものである。そんなに「連帯感」だけが重要ならば、近所の御老人と縁側で永遠に茶でも啜っているがいい! 長期間の同行は、互いの意志の疎通こそ深まるかも知れないが、極端にいえば「恋愛」たる条件である「他者性」をすり減らすものであり、私の定義からいっても「恋愛」とはいいえない。むしろ「恋愛」とは、一瞬の感情の爆発こそが重要だといえるのである。
ゆえに「合わない」人物、私とは「住む世界が違う」人物とは問答無用で関係を断つ。それは、私の感情が動かないからだ。かつ、それでもなお、「相手の事を思い計って」関係を続けるというのは、あまりにも相手を侮辱していることにならないだろうか?
恋愛関係とは両者の気持ちで構成されるものである。明文化された契約書でもない限り、相手が「NO」といえば、その時点で関係は終焉するべきものである。いくらでも人心など言語で操作することができるとはいえ、私はそれは望まない。あくまでも自由な「他者」と結ぶ関係が「恋愛関係」であるのだから。
ただし多くの場合、肉体的な従属を含む意味での「恋愛関係」契約が結ばれている。一般的な「彼氏/彼女」関係というと、それ以外の友人関係とは何が異なるのだろう? それはただ一点、肉体を自由にする権利をその契約相手に与えるということだけである。まず、精神的な従属は望めない。いくらでも口では何とでも言えるからである。だが、目の前では「好き」というセリフが必要となる。それは相手に対しての完全な従属を示すという誓いの言葉である。ゆえにその人物の肉体を管理することも、その相手には認められることになるのだ。「好き」などと歯茎が腐りそうな発言をした上で肉体関係は許さないという状況には、論理的説明が必要になることから考えても、その「好き」に肉体までの許容が通常は示されていると考えるのが妥当であろう。ゆえに「恋愛」契約には唯一、肉体の占有契約の有無が関わってくるといえるのである。
すると「恋愛関係」とは何とも面倒くさい儀式だとは思えて来ないだろうか? いざ「付き合って」みて、相性が合わなくて瞬時に別れを告げる。すると男性の場合は「やり逃げ」だのと非難されることもありうるのである。そういう人物の主張を聞いているに、期間こそが重要なのか? では、思考実験として、「恋愛関係」の契約を結ぶ上で「期間」も決定するようにしてみよう。たとえば一日限りの契約で、お互いに気に入った場合は翌日まで更新していくのである。ここで、注意してもらいたいのが、もちろん一方が気に入らない時点で恋愛関係の更新は行われないということである。未練も糞も関係なく、純粋な「恋愛関係」だけの構築を考えてみれば当然の結果である。すると「一日」という期間に区切る意味が判らなくなる。気に入れば更新すれば良いわけだし、気に入らないのに一日もの間も「恋愛関係」であるべきというのが我慢ならない。では、半日期限の契約にしてみよう。それにも同じようなことがいえるであろう。では、3時間。では2時間、1時間、30分、10分、1分…。ここまで行くと契約する意味自体が判らなくなってくる。それは全て、「契約」ということで自由な感情の発露を許さない機構と、恋愛は互いの意見の一致の上で行われるべきだという前提条件とが矛盾するからである。あくまで「契約」という関係を結ぶことは、他者の自由な思考を制限し、「責任」という足枷を負わせるものである。そして、それは、あまりにも「恋愛」という美しいものに対して反してはいないだろうか?
ゆえに「契約」は否定され、私の中では「自由恋愛」という言葉が輝きを増してくる。
その時々で自由な相手に「恋愛感情」を抱き、それが同調した場合、その二者は契約のない「恋愛関係」に陥る。あるいは自由な感情の発露に任せ、肉体関係を結ぶこともあるだろう。かつ、その相手といることが替え難い喜びをもたらし、それについても意見が一致したのならば、互いに自由なまま、関係を持続することも可能であり、一瞬で別れることも可能である。醜い人間の自己保身とは無縁の、純粋に相手との交感を目的とした真の「恋愛関係」が成立すると見ることは出来ないだろうか?
こういうと「フリーセックス」主義と誤解する脳味噌まで精液で満たされた愚鈍な人間も出てくるだろう。だが、断固として違う。ただ好きな相手と行うセックスと、性欲目的で行うセックスは断じて異なる。ただ、事実として、その差は単なる「気の持ち様」に過ぎないのだが、むしろ主観によって行為の意味が異なってくるのは当然である。それをわざわざ「気分的なもの」として切り捨てるのは無知かつ無思考の為せる業にならない。また、自己の存在に対して誠意のない人間は、自分の性欲に動かされている状態と、本当に相手を必要としている状態の区別がつかないのも事実である。そんな人物の口車に乗せられてしまったとしたら…ただ「不幸」というしかない。対策としては見分ける目を持つしかないのだろう。
ここまで独善的に語ってきたが、いくつか注意を要する箇所があるので軽く補足を行いたい。
まず、「恋愛関係」という言葉だが、これは契約の有無は関係なく、ただ、その両者の状態を表現した言葉である。ゆえに感情的に「恋愛関係」にある人物が占有契約を結ばないことも大いに想定できる。ばかりか、私は、その状態を望んでもいる。具体的な対象への肉欲を所有していない現在(平成13年10月14日現在)、私に残されているのは無秩序な肉欲だけである。ゆえに肉体的占有関係を取り結ぶ必要性を感じてはいない。だからこそ、数多くの「恋愛関係」を楽しみたいと思ってもいるのだ。
それに関係すると、「恋愛関係」の数の問題になるのだが、倫理的な意識も関係のない空間である以上、その対象の数も「ひとり」である必要はない。ただし、「無節操」または「気の多い」だけの状態とは異なることは注意してもらいたい。占有関係を結ぶ以上は、それは相互に「独占」であるべきであり、それを破り複数人と関係を持つことは、ただの「契約違反」に過ぎない。私が言う「恋愛関係の複数可能」とは、人間の主観が時間的に不連続であることに要因している。不連続だからこそ、ある瞬間はA氏に恋愛感情を抱き、ある瞬間はB氏に恋愛感情を抱くことになるのである。ただし、自己を、この肉体に集約されるものとして統一した場合、そういった論理的な齟齬は修正されるべきである。また、社会的な契約として外界に見える形で提示したならば、それは絶対に矛盾を抱えないよう努力することが求められる。そして、それが為されない「恋愛の複数可能」学派は、私とは袂を分かつものであり、表層が似ていたとしても決して混同はしないでいただきたい。少なくとも、私は私自身の統覚について、そこまで無責任ではないつもりだ。
無我夢中で私は自分自身の恋愛を生きてきた。そして、数多くの魅力的な人物と深く知り合うこともできた。相性の合う、合わないはあるにしろ、過去の自分の経験は未熟な部分も含め、すべてが私の経験である。誰に文句が言えるだろう? 相手にすら文句は言わせない。それは私の経験であるのだから。
しかし、当然だが、社会的な意味で迷惑をかけまくったことについては反省しているし、いまでも平身低頭、ただ謝るしかないとも思っている。
私の記憶に残る、激しくも情熱的な火花を散らした相手に対し、今でも敬意と愛情を感じています。願わくば、彼女たちが私に与えてくれた幸せと同じものを、私が与えることが出来ますように。
そして、この世に立たせてくれたことに対して、ありがとうと伝えたいと思っています。