
若い頃は誰しも他人との距離感に悩んだことがあると思う。
かくいう私も、大学時代には一種の神経症みたいになっていたんで、毎晩、布団の中に入ると、その日に行なわれた他人とのやりとりを思い返しては自分の言動を批判し、後悔するという…今から考えるととんでもなく辛気くさい日々を送っていたわけだ(笑)。
もうね、ちょっとした言い間違えとか、あるいは見栄を張ったりとか醜い言動をしてしまっただけで、自分を責めて自傷やら自暴自棄を繰り返し、あるいは、その時に対話していた相手をこの世から消し去って、そんな事実が現実にあったことを消去したいとも思っていたくらいです(笑)。
…ほとんどビョーキだわな(笑)。
で、すっかり更正した現在の私から見ると、あの当時の独特の苦悩は、すべて自意識が原因だったなぁと思うわけです。
だって、そもそも他人との関係を悩むということは、自分自身をよく評価して欲しい、あるいは自分自身を大切に扱って欲しい、という思いから生まれているわけじゃないですか。
確かに私も、「自己」というものは他人との関係で築かれるもので、他人の数だけ「自己」が存在していると考えています。
しかしだ、それはあくまでも受身的なもので、若者たちが悩むような「自分の存在」とは違います。あれは、ぶっちゃけ、他人と比較しちゃったりすることのできる価値や評価めいたものなわけですからね。
そんなもんは受験勉強か職場だけで必要にされていれば充分なわけです。友人関係に持ち込むことじたい間違っていると思いマッスル。
わかりやすい比喩を老子/荘子に習って持ち出すとすれば、自分自身というのはひとつの核です。複雑な多面体の核です。で、見る角度によって、その2次元的な印象は変化します。それが他者との関係で生まれる「自己」なわけです。核は核自身を把握することはできません。ただ鏡などに映った姿を見るだけで、あくまでも他者の目から見た姿と大差ない姿しか見ることができないわけです。
だからこそ「私は私」と態度を強硬にし、他人にその姿を押し付けることは傍迷惑でしかないし、逆に他人の抱く自分像に苦悩することも杞憂にすぎない…ってのは言い過ぎかもしれないけど、まあ、時間の無駄だわな(笑)。
放っておいても俺は存在しちゃってるんだからさ。
ええやん、それで(笑)。
まったくだ。若者はそれを含めて羨ましい。
つーか、何故にオッサンは若者のような自己に関する悩みを抱かなくなるのか…ってのが、最近、オイラには不思議なことだったりしますけど。
で、電話ありがちょん。でも月金以外は普通に仕事なんでライブは無理っす。