知っている人は知っているだろうし、知らない人は知らないのだが(笑)、私は本日、喧嘩というものをしてみたりした(笑)。
要するに犬も喰わないって言われるヤツだ(笑)。
その中で彼女の主張の数々を聴いていて、微妙にひっかかったのが「私は一生懸命に喜んでもらおうと●●している!」という言葉だ。
別の機会に触れたことがあるが、私も現在、友人を始めとするMac初心者の方々に喜んでもらうべく「ホームページ作成講座」なんてものを書いていたりする。
最近、無性に忙しい。
理由は簡単だ。wikiに執筆している「Macでのホームページ作成講座」のようなものを書くのに必死だからである。
くわしくはそちらにも書いたのだが、そもそもは同じくMacユーザーである友人から「ホームページを作りたい」ということで書籍の紹介などを頼まれたのがきっかけで、いざ書店を探し回ってみたのだが、置いてある本のほとんどがwindows専用という始末。あの秋葉原LAOXのBook館ですらMac専用のものは1冊しか見当たらなかったわけで、それすらも決してオススメできる本ではなかったため、よりによって私が重い腰を上げることにしたのだ(笑)。
自分が初心者だった時のことを思い出してもらえばわかるだろうが、初心者というのは右も左も専門用語もわからないような状態なわけで、そんな時に、自分のやりたいことが逐一、手順を追って丁寧に説明してあるような本があれば、どんなに心強いか想像に難くない。逆に言えば、そういう本と出会うことのできない現在のMacユーザーは不幸だとも言えるだろう。
そう考えれば考えるほど、私は書かずにはいられなかったのである。
もちろん私はMacのことも、webのことも、HTMLですらも完全に理解してはいない。ただサイトをいくつか立ち上げて運営したことがある…それだけだ。
だが、自分の極めて限られた経験であっても、誰かしらの参考になる可能性は否定できないだろう。
そして、その可能性があるかぎり、行動することは意味を持つ可能性があるのである。少なくとも、なにもせずに毎日をネットサーフィンしながら怠惰に埋もれて生きていくよりも幾分かは意味があることだろう。
常々、私は自分自身の無力さを嘆いては、なにも変えられない自分に苛立ち、自己否定を繰り返していた。だが、そんな私でも誰かの助けになるかもしれない。…そんな思いだけが私を動かし、キーボードを叩かせるのかもしれない。
酒も飲んでいないのに感傷的になって申し訳ないが、とりあえず今後の人生においても誰かに喜ばれるような行為だけを目的に生きていけたら幸せだな、と思う。
うーんと、偽善か善か、という問答についてはそのうち論じてみましょうか(笑)。私の後輩にそういう卒論を書いた人がいたことだし。
だが、もちろん、それを読んでくれなくても文句は言わないし、読んでもらおうと布教するつもりもない。むしろ検索エンジンのロボットたちが来ることすら拒否したいくらいの勢いだ(笑)。…さすがに検索拒否まですると「初心者向け」という当初の目的が果たせなさそうだから絶対にしないけど、まあ、それ以外では偏執狂的にMETAタグに記述しまくっていたりして(笑)。
つまり私は見返りを求めずに行為している。では、そこにある姿勢の違いはなんだろうか。
ここで話をわかりやすくするために友人関係に話を限定してみよう。
よく言われるのが「友人関係など損得から生まれる契約関係だ」という言説である。つまり、メリットとデメリットを勘定することにより人間は他人を友人と認定している、という考え方だ。たしかに事実かもしれないと思わせる説得力はあるだろう。私ですら自分に被害を与えるような迷惑な人間とは付き合いたいとも思わないし、本当に絶交したりもする(笑)。
…「地獄とは他者である」とまで言い切った
メガネオヤジもいたっけ。
だが、忘れ去られている重要なことは、友人関係はひとりでは築けない、ということなのである。いくら勝手に自分で損得勘定して「あいつは友人」と決めつけていても、相手に嫌われているんじゃ意味がない。それこそ勝手に契約されちゃう悪徳商法と大差ないわけである。
では互いにメリットとデメリットを提示しあって、契約を決めたのであろうか? そんなことはないだろう。お互いに相手のことを知らないままに出会い、少しずつ手さぐりで相手のベールを剥ぎ取りながら、そうやって関係を深めていったことであろう。
そこには完了された契約などは存在しないし、あえて契約という言葉を使うならば、一刻一刻のうちに更新されていく契約こそが友人関係なのである。それは、ただ破棄された時に初めて存在が知られるだけなのだ。
別の観点から論じれば、メリット/デメリットを勘定する行為は、要するに他者を一定の枠組みの中に押し込め、出てくるデータを客観的に観察して分類する行為だとも言えなくもないだろう。
そこに生きた人間がいるだろうか?
もちろん他人の心中などは測りしれないし、そもそも物理的にも身体によって隔てられている我々は、互いのことを本当に理解しあうことなどできないだろう。ぶっちゃけ私には「本当に理解しあう」という言葉すら何を意味しているのか理解できなかったりする。
だからこそ、逆に決めつけてはいけないのではないか?
他者との関係性すらをデータ化するということは、つまりは客観的な基準に置き換えることができるわけで、人間の本能としての資本主義の動きにつながる(経済でいう資本主義もこのバリエーションにすぎないと私は考えているからだ。要はあらゆる価値を貨幣という基準に置き換えることができるのが経済でいうところの資本主義だと私は把握しているからだ。)
そして、それが行き着く先は、将来的に登場するだろうと私が予想している「友人代行業」という商売なのだろう。
案ずるなかれ。
たとえば周囲の人間を「親友」「友人」「知り合い」「同僚」などとカテゴライズすることも、要は一定の基準で他人をランクづけしているわけで、他人を交換可能な数値に置き換える行為に他ならない。
友人とは交換可能か?
いま、まさにこの瞬間に生きる私にとっては、そんなはずはない。
この瞬間が唯一無二のように、その友人も唯一無二なのだ。
私は魑魅魍魎たる他人という存在を、ただ盲目的に信じるあまりに、ひたすらに喜んでもらいたいと思い続ける。
それだけが自我があるのかどうかすらも判別することのできないブラックボックスである「他人」を、「人間」にすることのできる唯一の行為なのではないだろうか。
なお、話の難しいのはここからで、いままで私が書いてきたことを理解して「よし、わかった!」と他人を人間にするべく行為し始めた途端、その行為は「人間にする」というメリットを得るための利己的な行為になってしまうのだ。つまりは他人は反応を吐き出すだけの機械と大差なくなってしまう。
その自分の行為をメタレベルから観察してしまうと、その瞬間に行為の意味は変容してしまうので、実際に行動する時は白痴になるくらいの心構えを持つべきだと私は考えている。それだけが偽善の罠から抜け出すための手段だからだ。