
「地方の時代」が叫ばれて久しい。
東京都知事はポスターで「首都移転反対」の文字に片足を載せ、親指を大地に向けて怒らせる。片や、その地方では、首都機能を招致しようと不可解なアピールをくり返す。
…はたして首都機能に、豊かな森と湖が、どんな役割を果たすのだろうか?
世界史のテキストを開いても「中央集権」「地方分権」が政治形態として出てくるばかりである。そして日本は統一国家であり、いくら地方自治的な制度を持っていても、中央国家の支配は免れ得ない。つまり、首都機能移転は、あくまでも中央集権でしかなく、その「首都」といわれる地理的範囲が広まっただけだということを忘れてはならない。そして、どの都道府県も「東京」であることに憧れている、それが現状なのである。
我らが栃木県が数年前に打ちだしたコピーが「とかいなか」。「都会」と「田舎」という言葉を掛け、その共存する地域である「栃木県」をガッツ石松と共にアピールする、という、心底、田舎くさいものであった。…私が顔を覆ったのはいうまでもない。
まず、否定すべきは、そのような「都会/田舎」という二元的な発想である。
首都機能(政治・行政)に、経済・文化が寄り添うのも理解できよう。そうすれば当然、人も集う。それが「東京」という街なのである。
だが、地方も「東京たらん」と欲するがゆえに、非「東京」であることが悪しきことのように思い込む。「花のお江戸」以外は、「花」咲かぬ不毛の地であるといわんばかりに「田舎」という汚名を浴びせかける。「田舎」なのではない、ただ「地方」なだけではないか。
私が主張するのは、「地方分業」という姿である。
現代メディアの中心地が東京であることには異存がない。明日を夢見る若者が「上京」するという旧時代的な構図は、私も嫌いではないし、「エピソード的存在」としての「人間」にとっても、「物語」としては上等なものではないかと思っている。
だが、文化とは、なにも現代メディアばかりではない。歴史もあれば、科学もある。そもそも、環境だって文化のうちではないだろうか。
つまりは、それぞれの都道府県が、それぞれの専門分野としての「うり」を持つこと、そういった文化的な分業を提案したいのである。
もちろん、既に行われているという見方もあるだろう。だが、国道沿いに小さな看板を立て、「にんにくの里」だの「二宮尊徳ゆかりの地」だの書いてある程度では意味がないのである。もっと大袈裟に、企業宣伝と同等の意気込みで行うべきなのだ。そのためには市場調査も必要であるし、そのための自治体自体の意識改革や施設開発も必要となってくる。
つまるところ、自治体のイメージ戦略なのだ。
例えば、栃木県ならば「餃子の街・宇都宮」から「中華料理の里」でもいいし、妖怪伝説も多く、日光なども有するために「ミステリアスな歴史の里」としてもいけるだろう。また、個人的には、麻の栽培が盛んだということで、アムステルダムも顔負けな一大「ヒッピーの里」でもいい。ただ市場的に考えても、まだ未開拓な部分への可能性ということで、「ミステリアス歴史の里・栃木」が最も有効だと思われる。
そのことで自分の故郷に対してアイデンティティを構成しやすくもなるだろうし、もし、そのイメージが嫌ならば、別の土地に移住すればいいのである。封建時代でもないのだ、その生まれた土地に縛られる必要もないだろう。そうすると、それぞれが自由な基準で住居を選択することになる。
均一的な国内であるよりは、地方自治体がそれぞれの多様性を持てば、まるで万国博覧会のような島国になるだろう。なんとも魅力的な計画図に私の眼には映る。
ただし、日本国全体での経済の停滞はまぬがれないだろうが、地方格差がなくなり、過疎問題にも解決の可能性があるのだから、いいのではないだろうか。どうせ、日本経済は、このままいっても先が見えているし。
もちろん政治の専門的自治体もあってもいいと思われる。が、もし戦争でも起こった場合、そこが破壊される可能性も考慮に入れるべきだろう。少なくとも数年前に出された「ラピュタ計画」のような、巨大な船上に政治機能を移し、時期ごとに各地を移動するという構想は、危険極まりないので辞めた方がいいと思う。…沈没したら、あまりに悲しいだろうし。
【追記】2004.2.5
2年ほど前に書いた上記の文章中に登場する「ラピュタ計画」ですが、ざっと検索してみたところHitする気配もなく、どうやら知らないうちに闇の中に葬られたようです(笑)。
代わりに浮上してきたのが「東京ラピュタ構想」という、東京そのものを2階建てにしてしまおうという突飛なアイデア。大林組の未来プロジェクトらしいです。