大学時代に書いた文章がある。
概略としては「俺は東京を墓場にするぜぃ!」くらいのものだ。
東京…。
寺山修司が書いた文章を思い出す。
私は人知れず、「東京」という字を落書きするようになった。仏壇のうらや、学校の机の蓋、そして馬小屋にまで「東京」と書くことが私のまじないになったのだ。
東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京
書けば書くほど恋しくなる。
私は寺山ほど東京から遠い地に生まれたわけでもないし、本籍地は東京だったりすることからも、年に数度は上京するような環境にいた。
それでも、私にとって、東京というのは特別な意味がある。
もちろん「オラ東京サ行くダ」的な、地方出身者ゆえの憧憬も含んではいるのだろう。それは否定したりはしない。
だが、私が東京に感じているのは、もっと別の感覚なのだ。
まずはやまだむう氏の2003年1月23日の日記を読んでもらいたい。
んで、その「後輩」は、いい大学に現役で合格して、4年で卒業して、就職しないで地元に戻ってきて、1年フラフラしたけども、就職が決まって次の4月から社会人、ってな境遇なんだけども。
なんて言うんだろ?
プライドの高さ、のようなモノを感じました。
『俺には学歴がある!だから俺には能力がある。こんな田舎で埋もれてるような人材じゃないんだ!』的な。東京での生活を「ハイカルチャー」と呼び、4月から世話になる就職先を聞いても断固として伏せる。
彼、面白いんだけども、なんだか魅力がない。
話は回りくどいし。ある面での幼さを感じた。純さんよりも年上だってことに今気づいて、ちょっと驚いてるもん。
いろいろ考えさせられた休日でした。
この人物のことは(おそらく)知らないが、喩えれば「フランスの首都、お洒落の街パリで数年間生活をしていたんだけど、家業を継ぐために強制的に帰国させられ、なにかあるとパリでの生活を語り出す中年女性」ってタイプなんだろう。
私の場合は、とりあえず鼎の軽重を問うつもりはなく、東京と地方というものに価値の序列をつける気にもならない。…だが、違いはあるのは誰しもが認めるところであろう。
むしろ問題は、そういった「東京/地方」という単純な対立構図が、「都会/田舎」という価値の対立構造に置き換えられてしまっていることなのだが、それは1999年頃に書いた「
地方分業の時代に」で既に触れているので、ここでは省略させていただく。
とりあえずは「東京はハイカルチャーか?」と自問していただきたい。
確かに大規模なデパートから専門店までが、いたるところに支店を出しており、金さえあれば欲しいものが簡単に手に入る便利さはあるだろう。
たとえば急に必要になった書籍があった場合は、神保町で何軒かの書店をハシゴすれば、ほぼ入手できたりするわけで、それでもダメなら東京駅まで歩いて行き、八重洲ブックセンター、あるいは新宿や池袋という新興書店激戦区などを散策すれば、ほぼ確実に手に入れることができるのだ。しかも、その日のうちに、である。
もちろんCDやDVDでも、よほどのマニアックな作品でないかぎりは同じことが言える。
また、ちょっと外出するにも自転車を少し漕ぐだけで山手線の対岸に行くことができ、雨の日でも電車やバスを破格ともいえる料金で利用することで、近距離へ容易に移動することができるわけだ。
そればかりか、演劇や映画などの興行や「ぴあ」に載っているようなイベントも毎日、何処かしらで開催されているわけで、これで文化的生活を送るな、と言う方が無理ではないだろうか(←言い過ぎ)。
だが、忘れてはならない。
「IT革命」という謎の言葉がチヤホヤさせられた頃から、インターネットによる情報環境は急激に進化を続けている。今では
Amazonで自宅に居ながらしてCDや書籍を購入することができるようになったし、オンラインで
映画を見ることもできる。
さらに時代は、一億総ヒキコモリへと進んで行くだろう。
そればかりか既にテレビという存在のおかげで、方言は絶滅の危機に瀕している。全国津々浦々の国民たちが、共通のコンテンツに触れ、共通の文化、価値観に触れていくことをテレビの全国放送は可能にしている。
そうなれば果たして地方だの都会だのという区別がなんの意味を持つのだろうか。
いわばネット上に整地された平坦な土地に我々は、いま、まさに家を建てようとしているのだ。
だが、さらに忘れてはならない。
我々が人間だということを。
我々は身体を帯びた存在だということを。
脳味噌だけで生きているわけではないのだ!
言語化できない世界のすべてを全身で受信することのできる存在なのだ!
動け!!!1
身体を駆動せよ!!!
東京は便利だ。
だが、それ以上に混沌としている。
趣き深い江戸文化を残しているかと思えば、場違いなほど近代的なビルに見下されていることに気がつき、その中で働く人と話をしてみれば明治時代の残党かと思われるほどの古式な価値観に洗脳されたままであり、その最寄り駅では海外から出稼ぎに来るアジア人が駅前でネクタイの曲がったサラリーマンを呼び止め、テロリストは先進的な国産IT企業に潜伏し、老人たちは家の鍵を開けたまま犬を抱えて散歩に出かける。
私が東京に感じているのは、ブレードランナ−に代表されるような退廃的サイバーパンクなスラム街、あるいはアジアのバザールのような雑多な街の持つ混沌のエネルギーへの憧れにも近いのかもしれない。
田舎からの憧憬を含んだ複雑な感情が、畸形として東京を生んだのかもしれない。
禍々しく、馬鹿馬鹿しい。
そして、だからこそ面白い。
その空気を全身で受けとめるためにも、私は東京を愛してやまないのである。