›2005年 3月 19日

[ 範疇 : 書痴の宴 ]

哲学まわり予選落ち

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 このエントリでは、哲学関連の書籍なんだが、ちょっとイマイチだったものを紹介する。
 敢えて言うなれば「読む必要のない本」もしくは「時間の無駄」と断言できるものも、このエントリにカテゴライズされてしまう。具体的なレベルについては書評を読んで判断して欲しい。
  
 なお、哲学といっても、やはり「派閥」や「流派」のようなものが存在する。
 私は明らかにカントやウィトゲンシュタインに色濃く影響を受けているので、それに反するものやポストモダン思想などについては、それほど好意を抱いてはいない。
 そういった執筆者の嗜好も、書評には影響していることを留意しておいてほしい。
 
 つまりは、絶対の評価ではない。
 それを理解した上で読み進めていってもらいたい。
 もちろん、できるだけ冷静な評価ができるよう努力はしているが。

●小泉義之「ドゥルーズの哲学」講談社現代新書(2004.1.4)
 ドゥルーズの哲学
 年末に暇つぶしのために購入し、そのほとんどを読み終えたが…こいつは糞(;´Д`)
 いきなり「反・永井均」的な論調で始まり、そのほとんどをドゥルーズではなく、小泉思想の紹介で貫徹されているという凄まじい作品である。
 某所にも書いたが、この世で読む価値のない文章をあえて挙げろといわれたら、俺は、俺自身と小泉義之の名前を挙げるだろう(笑)。
 ま、所々にはキラリと光る部分もあるわけで、勉強になったりもするんだけど…読書は別にギャンブルじゃないし、宝探しゲームでもないしな(笑)。
 なお、Amazon.co.jpで本書も含む小泉義之の著書リストを見ると、そのほとんどが見事に高評価づくしで笑えるんですけど(笑)。
 …信者でもいるのか、あるいは…本人…(;´Д`)いや、まさか、そこまで恥知らずじゃないっしょ?
 
●竹田青嗣「ニーチェ入門」講談社現代新書
 ニーチェ入門
 暇つぶしと日常的な復習に新書は手頃だと思い、目につくと買ってしまう癖があるのだが、これは失敗だった。
 竹田青嗣は確かに読みやすい。
 だが、哲学的センスに欠けるため、往々にして哲学を読み違えていることがある。
 たとえば「真理とは何か」を説明するために、認識論なんかを彼は良く例にあげるが、そこで批判されているカントへの理解は正しくはない。

ところで、カントはこの諸「認識」に序列を想定する。つまり、たとえば「アメーバ」の認識よりも「トンボ」のそれ、「トンボ」より「猫」のそれ、「猫」より「人間」の認識の方が“制約されていない”(より高度である)、と考える。そしてそう考えていくと、最も完全な(無制約な)認識として「神」の認識が想定されることになる。こうしてカントでは、「神の認識」において「客観認識」なるものが想定されるのである。(中略)
 カント的な前提では、もし「神」がいなければ「客観存在」なるものも「客観認識」なるものもともに宙に浮いてしまって、世界の秩序というものをどう考えればいいか、わからなくなってしまう。(P.193-195)
 まず竹田の言う「客観認識」が、カントでいうところの「物自体」を指しているであろうことは文脈から類推されるのであるが、残念ながらカントにおいて「物自体」は客観的世界としての資格を有してはいない。なぜならば絶対に人間には認識されない世界であると論理的に要請されるからだ。むしろ客観ではなく、超越的客観なのだ。
 しかし、認識される現象世界が、普遍妥当的であるためにも、つまりは映画「マトリックス」のような仮象世界にならないためにも「物自体」は必要となるのである。そして、それを通じることによって初めて、現象にも客観性を導入することができる、とカントは言っていると私は解釈している
 ニーチェの幼稚な形而上学などとは違い、カント哲学では用語同士が密接な関係を持ち、構造的に理論化されているのだが、その価値がわからず用語の表面だけを捉えては批判しているのである。わずかでも世界について疑問を抱いたのならば、すぐにわかりそうなものだが、竹田にはその様子が見られない。
 ゆえに私は竹田を哲学業界ではなく、あくまでも文学の領域の人間だと思っている。
 
 哲学には情緒や雰囲気や自殺などは無用。
 文学や宗教のようにセンチメンタルになるものではない。
 日本では古くから「苦悩する哲学者」というイメージがつきまとい、それこそ大学生などが「人生不可解」などと言って華厳の滝から投身自殺をしたりしているが、私からすれば滑稽な姿でしかない。
 人生や物事の意味が知りたければ宗教へどうぞ!
 哲学は意味を与えはしないのだから。
 
 なお、ニーチェを語る時に、かならずお目にかかる「ルサンチマン」(怨恨)という言葉に関して、以前からの疑問があったので、ここで論じてみよう。
 以下は私がつくった一篇の寓話である。
 若いキツネが手の届かない高さに美味しそうにぶら下がっている葡萄を見つめながら言った。「あの葡萄は酸っぱい葡萄だ」
 それを聞いていた長老キツネは、彼の言葉をこう訂正した。「必要以上に物を食べようと欲することは、卑しいキツネのすることだ。手の届く食物で満足するのが正しくて良いキツネなのだ」
 母キツネも賛同する。「美味しそうな葡萄だけど、甘い物は本当は毒なのよ。食べない方がいいわ」
 それを聞いた若いキツネは不思議そうに言った。「ボクは味見をしたから知っているんだけど、あれは酸っぱい葡萄だよ。酸っぱい葡萄は嫌いなんだけど、お腹が減って死にそうだから…」
 そういうと若いキツネはひらりと身体を宙に舞わせ、ぱくりと葡萄をひと呑みにした。そして地面に降りると美味しそうに舌なめずりをした。
 それを見ていた母キツネは「そんな酸っぱいものを食べちゃって、バカじゃないの?」と呆れ返る。
 だが、長老キツネは激怒していた。その晩、若いキツネは火あぶりの刑に処せられ、殺されてしまった。
 ニーチェが嫌悪するキリスト教的なルサンチマンでは「権力を持った貴族的な強さは良くないことだ」と価値の顛倒を行い、逆転された禁欲的道徳を生む。
 葡萄を「酸っぱい」と呼ぶことは、あくまでも貴族的価値観の基準の内部で「良くない」と価値評価を逆転することになる。たとえば自由奔放にセックスしまくる貴族を見て「セックスなんか気持ち良くないじゃん」と言うようなものである。いわば対象物の価値を逆転することになる。
 だが、禁欲的僧職者たちは新しい価値基準を設けて、舞台ごとひっくり返してしまう。つまりは「気持ちいいからこそ、セックスは悪いことなのだ」といった具合である。それは行為の価値を逆転することになり、つまりは物の価値など無視して、その行為そのものが良くないと断定することになるのだ。
 この違いは(すっかり忘れていたが)永井均「これがニーチェだ」で取り上げられている問題であり、些細な違いなのだが、本書では混同されたまま、同じ「ルサンチマン」として論じられてしまっている。
 そのあたりにも竹田の哲学的洞察力の無さが窺えるのではないだろうか。
 だが、顛倒する価値が行為の価値だった場合、その違いは区別できなくなってしまわないだろうか?
 「贅沢なんかバカのすることだよ」という場合と「贅沢などは悪いことだよ」といった場合と明確に区別できるだろうか?
 
 ニーチェに対して散々に文句をつけてはいるが、私はニーチェが好きである。
 その形而上学にはまったく賛同できないのだが、まず世界に対しての姿勢が良い。
 そのあたりについては、また別の記事を用意して論じてみるとしよう。

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