
このエントリでは、哲学関連の書籍なんだが、ちょっとイマイチだったものを紹介する。
敢えて言うなれば「読む必要のない本」もしくは「時間の無駄」と断言できるものも、このエントリにカテゴライズされてしまう。具体的なレベルについては書評を読んで判断して欲しい。
なお、哲学といっても、やはり「派閥」や「流派」のようなものが存在する。
私は明らかにカントやウィトゲンシュタインに色濃く影響を受けているので、それに反するものやポストモダン思想などについては、それほど好意を抱いてはいない。
そういった執筆者の嗜好も、書評には影響していることを留意しておいてほしい。
つまりは、絶対の評価ではない。
それを理解した上で読み進めていってもらいたい。
もちろん、できるだけ冷静な評価ができるよう努力はしているが。
●小泉義之「ドゥルーズの哲学」講談社現代新書(2004.1.4)

年末に暇つぶしのために購入し、そのほとんどを読み終えたが…こいつは糞(;´Д`)
いきなり「反・永井均」的な論調で始まり、そのほとんどをドゥルーズではなく、小泉思想の紹介で貫徹されているという凄まじい作品である。
某所にも書いたが、この世で読む価値のない文章をあえて挙げろといわれたら、俺は、俺自身と小泉義之の名前を挙げるだろう(笑)。
ま、所々にはキラリと光る部分もあるわけで、勉強になったりもするんだけど…読書は別にギャンブルじゃないし、宝探しゲームでもないしな(笑)。
なお、Amazon.co.jpで本書も含む小泉義之の著書リストを見ると、そのほとんどが見事に高評価づくしで笑えるんですけど(笑)。
…信者でもいるのか、あるいは…本人…(;´Д`)いや、まさか、そこまで恥知らずじゃないっしょ?
●竹田青嗣「ニーチェ入門」講談社現代新書

暇つぶしと日常的な復習に新書は手頃だと思い、目につくと買ってしまう癖があるのだが、これは失敗だった。
竹田青嗣は確かに読みやすい。
だが、哲学的センスに欠けるため、往々にして哲学を読み違えていることがある。
たとえば「真理とは何か」を説明するために、認識論なんかを彼は良く例にあげるが、そこで批判されているカントへの理解は正しくはない。
ところで、カントはこの諸「認識」に序列を想定する。つまり、たとえば「アメーバ」の認識よりも「トンボ」のそれ、「トンボ」より「猫」のそれ、「猫」より「人間」の認識の方が“制約されていない”(より高度である)、と考える。そしてそう考えていくと、最も完全な(無制約な)認識として「神」の認識が想定されることになる。こうしてカントでは、「神の認識」において「客観認識」なるものが想定されるのである。(中略)まず竹田の言う「客観認識」が、カントでいうところの「物自体」を指しているであろうことは文脈から類推されるのであるが、残念ながらカントにおいて「物自体」は客観的世界としての資格を有してはいない。なぜならば絶対に人間には認識されない世界であると論理的に要請されるからだ。むしろ客観ではなく、超越論的客観なのだ。
カント的な前提では、もし「神」がいなければ「客観存在」なるものも「客観認識」なるものもともに宙に浮いてしまって、世界の秩序というものをどう考えればいいか、わからなくなってしまう。(P.193-195)
若いキツネが手の届かない高さに美味しそうにぶら下がっている葡萄を見つめながら言った。「あの葡萄は酸っぱい葡萄だ」ニーチェが嫌悪するキリスト教的なルサンチマンでは「権力を持った貴族的な強さは良くないことだ」と価値の顛倒を行い、逆転された禁欲的道徳を生む。
それを聞いていた長老キツネは、彼の言葉をこう訂正した。「必要以上に物を食べようと欲することは、卑しいキツネのすることだ。手の届く食物で満足するのが正しくて良いキツネなのだ」
母キツネも賛同する。「美味しそうな葡萄だけど、甘い物は本当は毒なのよ。食べない方がいいわ」
それを聞いた若いキツネは不思議そうに言った。「ボクは味見をしたから知っているんだけど、あれは酸っぱい葡萄だよ。酸っぱい葡萄は嫌いなんだけど、お腹が減って死にそうだから…」
そういうと若いキツネはひらりと身体を宙に舞わせ、ぱくりと葡萄をひと呑みにした。そして地面に降りると美味しそうに舌なめずりをした。
それを見ていた母キツネは「そんな酸っぱいものを食べちゃって、バカじゃないの?」と呆れ返る。
だが、長老キツネは激怒していた。その晩、若いキツネは火あぶりの刑に処せられ、殺されてしまった。